※この記事は2024年3月に閉鎖する私のサイトに掲載していた2001年6月に訪問した記録の加筆転載です。
私の祖母山根キクは,昭和12年に『光は東方より』という書で,
かのイエス・キリストの墓が青森県戸来(へらい.現,新郷村)にあると公表した。→山根キクの紹介
この書は翌年に発禁となったが(さらにキクは皇統研究をしたかどで不敬罪で逮捕.竹内文献も没収),
墓とされた地元ではおおいに喜び,大々的に観光名所としてアピールした
(さらにアメリカで映画化の話が進んだが戦争となりたち消え).
’キリストの墓’は今でも新郷村の貴重な観光資源となっているらしい.
毎年6月第1日曜に「キリスト祭」が行なわれ,
「ナニャドラヤ」という歌詞(古代ヘブライ語との説あり)の踊りが披露されるという.
どうせ行くならその時期を選んで青森に飛んだ。
以下新郷村に入る所から掲載
十和田湖から新郷村の入り口は,眉(迷)が平(現地ではマユガタイと発音)という山上の平地(別天地)で,
キクが「エデンの
園だ!」と感動した場所(右写真).
でも今は,ドライブインがあり,車のエンジンの園.
山菜取りの基地になっているらしい.
つられて車を停めれば,十和利(とわり)山の登り口があり,そこに鳥居が建っている.
奥には
社殿はないので,十和利山そのものがご神体のようだ.
ちなみにこのあたりの地名・戸来(へらい)は”ヘブライ”から来ているという。
店に入ると,なんと「キリストもち」なる餅が墨の上に櫛にささっている(左写真).
60年の歴史だというから,戦前からだ.
丸餅で,味噌だれの麦80円,蕎麦90円、キリストにしては安いものだ.
そこから車でどんどん下って,集落となり,大石神ピラミッドへの道を分けると,
まもなくキリストの里公園.
駐車場に車を置いて緩い坂を登ると,ここの地主でキリスト塚の墓守の家系である沢口家の墓所がある.
墓石の紋章はダビデの紋章✡️に似ている.
その上の階段を上がると立派な2つの盛り土(土まんじゅう)がある.
ここある2つの盛り土は,昔から埋葬者不明ながら存在を知られていて,
「墓所館」(ぼしょやかた)と言われていた.
地主である沢口家が代々「殿様の墓を守れ」と言われてきたという.
それをキリストの墓,すなわち「十来塚」(写真奥)と,弟イスキリ(身代わりで十字架に架けられた)と父母(ヨゼフとマリア)の分骨の「十代墓」(写真手前)と断定したのは,
竹内巨麿と酒井勝軍(かつとき)※らであり,翌年,キクが詳しく調査してその話を上の本として世に出した.
※:ピラミッド日本起源説・日ユ同祖説の提唱者。戦前に日本人とユダヤ人が同祖であるというこの説がある程度広まっていたせいもあって、
日本人はナチスのユダヤ人迫害には同調しなかったと言われている。
ちなみに『キリストは日本で死んでいる』(昭和35年)では,キリストは十和利山に埋葬されていると書かれている.
今では両方の塚に立派な十字架が建てられて,すっかりキリスト教的な雰囲気.
ここは高台にあり,しかも周囲は明るい木々に囲まれているので,とても気持ちが落ち着き、このままずっと居たい気になる.
墓所の奥に沢口家と新郷村の第三セクターによる伝承館※がある.
受付の婦人は,沢口家の分家だそうで,祖母の『キリストは日本で死んでいる』を読んでいる最中だった.
そこへ著者の孫が忽然と目の前に現れことになる.
館内には,新郷村の習俗も紹介されており,この地では赤子の額には十字を入れていたという祖母の記述通りの展示があった(写真).
※この伝承が本当にキリストにまつわるものだとすれば、私は”かくれキリシタン”がかかわるのではないかと推測する。
諸星大二郎の作品「生命の木」のように(「奇談」というタイトルで映画にもなった)。戦国時代の津軽氏はキリシタン大名だったし。
キリスト祭り
伝承館受付の女性から,祭り関係者や村長にも紹介してもらった.
そして急きょ,翌日のキリスト祭りの来賓席に坐るはめとなった.
正装で名札を下げたいかめしい来賓の面々の中に,ポロシャツにVTRカメラを持った私の姿は場違いだが,
まぁ,縁故がある人間の一人(他に墓守の子孫沢口氏も列席)だからいいだろう.
祭りは,けっこう儀式的で,村長挨拶から始まって,地元鎮守の三嶽神社(?)の神官が重々しい祝詞を唱える.
墓前のキリストを神道の神主が祈祷するというおかしな風景
(竹内文献※によればおかしくないし、神道の寛容さの現れでもある→関連記事).
※:竹内巨麿の神社に代々伝わる文書で、世間では「竹内文書」、山根家では「竹内文献」。→山根キクの紹介内に解説
次いで村長から始まってお歴々(地銀の支店長やJR東日本の駅長までも)の玉串奉奠.
さらに地元の獅子舞奉納.
そしていよいよ,キリストの墓前でのナニャドラ踊り.
とても単調なメロディの繰り返しで,南部地方(岩手〜青森東部)一帯に拡がった踊りの原形である雰囲気.
「ナーニャードヤラー,ナーニャードナァサァレノー ナーニャードヤラー」と歌っており,
土産の湯飲みにもそう書いてあるが,
正確には「ナーニャードヤラヨ,ナーニャードーナァサァレダーデサイ ナーニャードヤラヨ」という.
この意味不明な歌詞は,川守田という神学博士によれば古代ヘブライ語で,
「御前に聖名をほめ讚えん 御前に毛人を掃蕩して 御前に聖名をほめ讚えん」という意味なのだという.
ちなみに南部地方の伝説では,この歌はこの地を訪れた南朝の長慶天皇が作ったともいわれている
(南朝伝説も竹内文献と無関係でない).
こんな短い歌詞の単調な繰り返しだから,どうやって終わるのかといえば,
祭りの進行係の人が太鼓のたたき手に「そろそろ」と伝えると,太鼓が音を抜く,それでちょっと遅れて踊りが終わる.
この後、酒井勝軍が発見したという大石神ピラミッドにも車で立ち寄った(現地に解説板がある)。
道路標識に「キリストの墓」「ピラミッド」とそれぞれ表示されているので迷わないが、ここが日本の気がしなかった。