今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

『意識障害の現象学』安芸都司雄

2014年08月31日 | 作品・作家評

久々に書評を書きたくなる著作に出会った。
『意識障害の現象学』 安芸都司雄 世界書院 1990

著者は脳外科の臨床医で、精神科医でなければ、ましてや哲学者でもない。
今まで現象学と医学の接点といえば、精神医学と相場が決まっていたが、
脳外科医の著者にとって、すなわち臨床的に患者の意識障害を診る医者にとって、意識現象をきちんと捉えるのは現象学以外にはないという。

われわれが意識を問題にする時、どうしても「意識清明」(健常者の通常の覚醒時の意識状態)であることが前提される。
その結果、意識清明を自明視・当然視し、意識清明とはどのようなことか、何が可能なのかという問いをスルーしてしまう。
このように自明視された問題をきちんと問えるのが現象学の真骨頂だ(だから、自明視されている問題をきちんと問いたい人が現象学に接近する)。

著者はフッサール、ハイデガー、メルロ=ポンティは参考にしても、ビンスワンガーなどのいわゆる現象学的精神医学者にはまったく言及していない。
ビンスワンガー嫌い(その理由は松尾正氏の批判と同じ)の私にはそこが逆によく、精神医学臭のない現象学の応用として新鮮だ。
そして本書が哲学者に不可能で医師だから可能だったのは、臨床的に意識障害を扱っているから。
現象学はかように哲学者の手から離れ、”現象”に携わる現場の者たちに応用されてこそ存在意義がある。

本書は、意識障害の段階を意識清明から完全昏睡まで12段階に分け、その各段階の臨床症状、意識対象、対象的意味、存在意味を記述している(さらに諸能力・障害の医学的解説も)。
すなわち意識障害の存在論的分析にまで至っており、心理現象を存在論的に論じたい私にとって、その基礎を支えてくれる。
「意識があるとはどういうことか」(という存在論的問い)を、昏睡状態から意識の回復過程を段階を追って臨床的・現象学的・存在論的に記述することで、到達点としてのわれわれの意識清明な状態では何が可能になっているのかを、その可能になる数多の事を段階を踏んで記述している。
その記述の根拠が、筆者自身の臨床体験なのだから、哲学者が逆立ちしてもできない強みがある(行動や知覚について、他人の褌で相撲を取らざるをえなかったメルロ=ポンティの弱みがここ)。

ちなみに、著者のような論考が可能になるのは、意識清明レベルの日常的反省をさらに現象学的に反省できることであるから、意識清明の上を行くレベル13(現象学的意識)なのではないかと秘かに思っている(自分が心理学・現象学をやっているのも、普通の人の意識レベルを俯瞰できるその上の意識レベルに行きたいからな気がする)。

著者はもともと、患者の意識障害が進み、死に近づくと、意識清明な時に示していた死への不安や恐れを示さなくなることにひっかかっていたという。
その過程は、まさにわが父が数ヶ月の入院の後、死を迎える過程そのものだった。
そう、この12段階を今度は意識清明側から始めると、意識が次第に混濁して、やがて精神的な死を迎えるまでが逐次的に示される。
それが単なる臨床症状の記述で終わらず、
意識清明から昏睡に至る過程で、志向現象(=意識)がどうなるのか、そしてその意識を可能にしている存在がどうなるのかが記述される。
そこが現象学なのだ。
私自身この複雑な過程をきちんと理解するために、本書の12段階の記述から、どういうことがどの段階で可能になるかを○×にして、エクセルで一覧表を作ってみた(まず自分に関心がなくなり、そして周囲に関心がなくなり、残るは身体に…。ちなみに失禁は意外に早い段階で始まる)。
記述は”脳死”(正しくは植物状態)段階で終わっているが、これこそ”死ぬ瞬間”までの意識過程を捉える試みともいえる(キューブラー=ロスの『死ぬ瞬間』はその意味では期待外れ)。
実は著者には、この問題を主題にした『死の体験 自己の他者性を生きる』(世界書院)という後続の著作がある。死に一番直面する書と思え、これを次に読んでみたい。

紹介した著作は上下2巻で900ページにも及ぶが、著者の思考の特徴なのか、繰りかえし部分が多いので、それらを読み飛せば、意外に楽に読み進めることができる。
逆に繰りかえしが多いおかげで、読んでいる途中で幾度も意識清明状態を維持できなくなっても、論旨をそのまま追えるのもありがたかった。



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