期待の仏教改革者らの”私の二重性”の言を紹介し、それと関連して私の「心の多重過程モデル」による”意識の多重性”を論じたが、考えてみれば、すでに伝統仏教において、意識は2重・3重どころか、”8重”にもなっていた。
まずは五感に対応する五識(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識。すなわち、各感覚相ごとに識がある)、それを統括する第六識としての意識(「意識」の原語はここ)。
ここまでは仏教全体に共通。
さらに大乗仏教の唯識思想では、第七識としての末那(マナ)識(自我意識)、そして第八識としての阿頼耶(アーラヤ)識が想定されている。
五感(知覚)も識(認識作用)だという発想は、それらを統覚する高次の意識を前提としない発生論的視点としてむしろ科学的でさえある。
また仏教(唯識)で夢を明瞭な意識作用とみなしている(”唯識”の重要な論拠が夢の意識経験)のは、私の考えと一致している。
末那識は自我意識で、システム2に対応する。
システム2はすばらしい人間的心だと思っているが、仏教では苦の源泉の1つとみなしている。
仏教では苦の原因を、渇愛と我執においているが、この二つは、動物的欲望(システム0)と人間固有の執着(システム2)という互いに異質のサブシステムであるのだが、この点(異質性)を仏教は強調しない(後者を強調するのは大乗仏教のようだ)。
阿頼耶識は、いわゆる無意識を含めるが(仏教はとっくの昔に無意識を認めていた)、それにとどまるものではでなく、輪廻を超えて作用する業(カルマ)の原因とされ、いわゆる生死を超えて輪廻する当体とされる(中村元氏の解釈)。
すなわち、来世とか前世とかを巡るのはこの阿頼耶識であって、生命活動によって現世のみで作動する意識や末那識(自我)は決して来世や前世を体験できない。
ただし、このような宗教的神話を心理学的意識論としては認めるわけにはいかないので、阿頼耶識については私のモデルとの接点はない。
もっとも、(大乗)仏教の目的はこれら識にあるのではなく、これらの識を”智”に変換するところにある。
すなわち識のままではダメで、それを超克しなくてはならない。
心の多重過程モデルは、スピリチュアル系の心のモデルと同じく、意識の進化・高次化を志向しているが、仏教では、識がいくら進化しても、識である限りは”悟り”には至らず、識を智に質的に変換して初めて意味があるという。
それを明確に述べているのが空海だ。
空海の『十住心論』、すなわち心の10段階進化モデルでは、阿頼耶識にまで達した”唯識”は、レベル6の「他縁大乗心」で、大乗仏教段階としては最初期で最低レベルにすぎない。
最高位のレベル10の「秘密荘厳心」(密教)では、五識、意識、末那識、阿頼耶識がそれぞれ成所作智、妙観察智、平等性智、大円鏡智に転換し(ここまでは唯識レベル)、さらに阿頼耶識の先に第九識「菴摩羅(アンマラ)識」を追加し、その識が大日如来の智である「法界体性智」となるという(合せて五智)。
識のままでいてはいけないのだ。
かくも伝統的仏教の心の理論は、私の心の多重過程モデルのはるか先を行っている。