今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

事件か事故かの二価論理

2022年10月05日 | 時事

江戸川で発見された少女の遺体は、溺死ということだった。
これで、世間は一気に事故死説に傾き、ネットでは事件説を唱えた者への揶揄が始まった。

私は、この件は、道志村での行方不明少女の件と同じく、事件と事故の合わさった内容の可能性を否定できないと思っている。
すなわち少女はともに、自発的に最後の場に赴く可能性が物理的障害によってかなり低く、誰かにその場所に連れていかれ、突き落とされた結果の死亡、言い換えれば、犯人は少女を直接自らは殺害はせず、「未必の故意」の状況に持っていって、結果的に死に追いやった可能性である(犯人がいるとすれば、衝動的でなく、特殊な嗜好性を持っていて、犯行を繰り返しそう)。

もちろんそれは、状況証拠をすべて考慮した結果で、証拠を自分のストーリーに合わせて任意に取捨選択し事件が事故のどちらか一方に結論を持っていくことをしなかったためである。
事件と事故は両立せず、どちらか一方しか該当しない、という発想は、私が本来的に採用を控える”二価論理”である。

二価論理は、素朴な概念操作(論理)に潜むバイアス(判断の歪み)であり、二価的でない、より複雑(確率論的)な現実事象に適用できない(二次元は三次元を正確に記述できないように)。

単なる思考癖に過ぎない二価論理に甘んじている限り、主観的に解った気になるだけで満足する通俗知に止まり、複雑性に満ちた現実をその複雑性もろとも理解しようとする学知には永遠に至らない
※:大学では複雑性に謙虚に立ち向かう探求姿勢を教えているが、社会に出ると単純化することだけが求めらるようだ(単純化の限りを尽くしてA4一枚に収める思考の節約が求められる)。私がマスコミの関与を避けるのも、心理現象を暴力的なまでに単純化をしたがる姿勢に迎合したくないため。

こういう人には、瞑想する暇があったら、まずはシステム2の知を洗練させることをお勧めする。