今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

意識の二重性

2022年10月11日 | 心理学

瞑想やシステム3と関係する私”の二重性について議論したので、それよりは了解しやすい”意識”の二重性を論じたい。

意識の二重性は、”私”の二重性に対応したものではない
なぜなら、意識は私(自我)とは別の現象で、むしろ”私”の経験を可能にする、より根源的な現象だから。
意識があって初めて”私”が可能となる。
なので、意識の二重性は、”私”の二重性よりも根源的な現象である。
ということで、”私”の二重性を結局ピンと来なかった人でも、意識の二重性はずっと了解しやすいと思う。

意識には、意識がある/ないというレベルと、何を意識しているかというレベルの二重性がある。
前者(レベル1)は日常的には覚醒/睡眠という意識水準の問題で、後者(レベル2)は覚醒(一定以上の意識水準)を前提とした意識活動の問題である。
レベル1の中枢は脳幹・視床下部で、レベル2は大脳皮質の前頭前野である。
すなわちそれぞれの中枢が異なることで、メカニズム的にそれぞれ活動は独立しうる。

もっとも、レベル1がレベル2を可能にするという階層関係が基本なので、覚醒→意識活動という連動関係が基本となるが、その関係に例外がないなら、すなわちレベル1とレベル2がいつも一体なら、意識を二重とする必要はない。

その階層関係を詳細に論じたのは、このブログでも紹介した安芸都司雄で(→記事)、昏睡から~意識清明までの可逆的移行段階を示した12段階の意識水準のうち、意識水準の低い順でⅠからⅣまでは、昏睡状態を含む高度意識障害に相当し、その上の意識水準Ⅴにおいて「意識があるとみなせる」状態(命令された身体運動ができる)となる。
ただし健常者の覚醒状態に相当するのは、ずっと上の意識水準ⅩⅠで、臨床的に問題なく、ほぼ意識清明の状態という。
すなわち、「意識がある」水準と、意識活動が問題なく作動している水準の間には、安芸の基準で6段階存在し、その間は”意識はあるものの、意識活動は十全に機能していない”という中間的状態になっている。
さらに意識活動が臨床的に問題ない水準以上(Ⅹ−ⅩⅡ)においても、意識活動の能力に差があり、意識水準が最高度の水準ⅩⅡ(意識清明)に至って初めて、自我という人間固有の高度な意識活動が可能となる。

この意識水準とは別のアプローチとして、レベル1が作動(覚醒)しているものの、レベル2(意識活動)に支障がある固有の病理現象について、脳科学者のA.ダマシオがまとめているのでそれを紹介する

ダマシオは、意識を覚醒・中核意識・拡張意識の3段階に分け、それに対応する自己(意識)を、原自己・中核自己・自伝的自己に対応させている。
自伝的自己は、ジェームズの「客我」として対象化された自己で、まさに清明な自我活動の証拠である。
そして覚醒はしているが、中核意識・拡張意識がともに作動していない重篤な意識状態として、「持続性植物状態」(無反応だが開眼し、睡眠覚醒のサイクルが見られる)、「欠伸発作」(てんかん発作における意識障害で姿勢は維持)、「無動無言症」(覚醒は認められるが、応答性がない)、「アルツハイマー病」(重症化するにつれ、自伝的自己→中核自己が順次消えて、最後は覚醒だけになる(=痴呆))を挙げている。
さらに覚醒と中核意識が作動していながら、拡張意識が作動しない(自伝的自己のみの障害)より軽度な状態として、「欠伸自動症」と「一過性健忘」を挙げている。
これらを見ても、意識のレベル1とレベル2は必ずしも連動しないことがわかる。

ではその逆の、”覚醒していない状態で意識活動が作動する”という(階層の逆)現象はあるのか。
むしろこちらの方が臨床的な問題はなく、健常者でも頻繁に経験している。
「夢」である。
私は、夢を、”睡眠中におけるかなり清明な意識活動”とみなしている。

夢は決して誰かさん(フのつく人)が唱えたような無意識の活動ではない。
もしそうだったら、覚醒後の意識(自我)が夢を”覚えている”ことは原理的に不可能である。
なぜなら、無意識とは、意識に上がらない心の活動をいうから。
そして無意識を意識化できるのは熟練した専門家の介入による精神分析療法しかないというから。
だから素人の我々が日常的に(睡眠中ならなおさら)、無意識を意識化することはありえない。

そもそも意識と自我(私)とは別の現象である。
夢はまさに意識が自我の制御から離れて自律的に活動している現象である。
夢を無意識側においやる発想は、自我と意識とを同一視している(意識を自我に矮小化している)ためだろう。

人間並みの自我が認められないたくさんの動物種においても、意識は間違いなく発生している(睡眠行動が観察されるならそれ以外は「意識がある」)。
すなわち意識の方が自我よりも発生が古く、活動域も広い。
なので自我は意識と同じでもその主人でもなく、意識活動の(進化的には最近の)一部にすぎない。

以上を整理すると、意識の”2”重性は、意識についての最小の分類数にすぎず、詳細にみるとダマシオの3種、多いと安芸の12種に達する。
私の「心の多重過程モデル」では、システム0、1、2がダマシオの3種にそれぞれ対応する。

安芸との対応では、システム0だけが作動しているのが意識水準Ⅰから Ⅶ(昏睡~中程度意識障害)まで、それに加えてシステム1が作動するのが水準Ⅷ(軽度意識障害)以降、それらに加えてシステム2が作動するのが水準ⅩⅠ(正常な意識活動)からとなる。
そしてダマシオや安芸の視野にはないシステム3(自極の極自我からの分離)は、安芸の12水準を私なりに拡張して、「意識水準ⅩⅢ(超意識清明)」すなわち”ハイパー意識”に相当する。

多重過程モデルでは、自我や意識だけでなく、心の機能(働きの単位)はみな多重過程を示している。

【参考文献】

・安芸都司雄 1990 『意識障害の現象学』 世界書院

・ダマシオ, A(田中三彦訳)  2018 『意識と自己』 講談社

・山根一郎  2020 「心の多重過程モデルにおける意識の多重性」 椙山女学園大学研究論集 人文科学篇(51) 87-98


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