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最近、参拝者の多いお寺(仏教寺院)に参拝に行くと、
二拝二拍手一拝の神社式拝礼を、自信たっぷりと、ご本尊の前でやる人(しかもいい歳した人)が少なからずいて(場違いの拍手の音が響き渡り)、とっても悲しくなる。
日本文化の断絶に直面した思いがして。
こういう人の家には、仏壇はなく、親族の法事に参加する(社会的学習の)機会を得なかったようだ。
でも、初詣や祭礼で神社には行くのだろうな。
神社に行くと、拝殿の前に上の参拝の仕方が書いてある。
そして、お寺には書いてない。
上野の清水観音堂(寛永寺)には、神社式の柏手(かしわで)を打つ人の多さに見かねて、
ここでは手を打たないことと、仏式のやり方が日本語で(日本人向けに)書いてある。
仏式の拝礼は、とても簡単。
ただ心を込めて合掌するだけ。
回数を数える動作がない分、雑念なしに心を込めることができる(逆に言えば、神式の拝礼って異なる動作をそれぞれ頭で回数を数えるので身体運動的)。
さらに読経(念仏・題目)や礼文(らいもん)、本尊の真言(マントラ)を唱えたらなおよし。
そして一礼。
その後、(余裕があったら)焼香するのが正しい。
そもそも、神社での拝礼も、神仏習合だった江戸時代は、合掌だったようで、→神仏習合での来拝の仕方
現代の神式の作法は、明治の神仏分離以降にでき上がった。
仏前で神式の拝礼をあえてする人は、信念で神式を貫いてるわけではなかろう。
そういう信念の人が、寺に参拝することはないはずだから。
やはり、仏式拝礼そのものを知らないためだ。
おそらく、キリスト教会ではやらないと思う(いや、そのうち「同じ”神様”だから」と解釈してやってしまうかも)。
ということは、神社のように、お寺がそれを教示するしかない。
すでに”常識”ではなくなっているのだ。