今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

ベビーカー禁止騒動にみる哀しさ

2017年01月07日 | 時事

東京の乗蓮寺が出した初詣客への「ベビーカー禁止」のお触れに対する反論と、
それに対するお寺の釈明でわかった事が話題になっている。

この騒動を眺めて2つの点で哀しくなった。

ひとつは、ベビーカー禁止に対する反論が論理的誤謬を犯しているのに、
それに乗ってしまう人が多かったこと。
すなわち、禁止しているのはベビーカーだけなのに、それを車椅子などに勝手に拡大して、
その拡大した禁止を(論点を身障者差別にずらして)批判している誤謬に無自覚な点。

この誤謬は「わら人形論法」という名がついている。
すなわち論議世界に存在しない虚空(わら人形)に論点を勝手に移動して反論しているのだ。
この誤謬論法は、国会の論戦などにも散見し、反対のための反対という感情吐露でしかないので、
国民が期待している建設的な”議論”にならない。

この誤謬思考は、一般的な思考バイアス(偏り)といっていいくらい出現頻度が高い。
なにしろ、論理運用の専門家たる哲学者たちの議論、とりわけ学派間の論争にも登場するから。
すなわち相手の理論を否定するために、その理論が言及してない領域にまで理論を勝手に敷延させて、その領域での理論の矛盾をついて、反論している気になっているのだ。
だからこそ、システム2(思考)のバイアスを誰しもが自覚する必要がある
(この種の研究は認知心理学で進行中)。 

今後は、このような誤謬による反論に出くわしたら、大得意になっているその人に「それって”わら人形論法”ですよ」と指摘して済ませてしまおう。

哀しかったことのもうひとつは、もっと深刻。
お寺側によれば、ベビーカーを禁止したのは、ベビーカーを優先していた通路に、
それを悪用して1台のベビーカーに大勢の年長者が一緒に通過して、
本来並ぶべき行列を素通りしたことが目に余ったからだった。
ルールの悪用によるマナー違反は、マナーでは解決できないため、
ルールをより厳しくせざるを得ない。
つまり、ルール(法)に違反しなければ、マナー(礼)なんて無視するという行為に、
日本人として哀しかった。

2500年前に礼の徳を唱えた孔子によれば、士たる者は「礼」によって自己制御する。
それができない庶民は「法」によって制御するしかないと考えた。
ところが、江戸時代の日本では庶民教育レベルまで儒学の教えがたたき込まれたため
(具体的には朱子が教育用に編纂した『小学』をテキストにした)、
庶民がこぞって士のレベルに達してしまった。
日本人の民度の高さはこれに由来する。
すなわち、孔子が理想とした礼治社会に現実が最も近づいたのが日本だった
(もちろん、明治以降の公教育の充実も、そのレベルを下げなかった)。

礼(マナー)に達した者は、節度をもって自己制御できるので、
「法に違反しなければ何をやってもいい」という無節操な法治主義的行動をとらない。

だが、現代日本では、「法治主義」が正しいと上から下まで思い込んでいるため、
礼は不可視化され、明示的なルール(法)だけが基準とされているので、
マナー(礼)すなわち節度の力がどんどん弱くなっている。
そしてそれが、今回のお寺のように、法による制限強化を促進させ、
われわれをますます不自由にするのだ。
かくして私の哀しみはさらに深まる。