今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

干支を一巡

2016年07月29日 | 雑感

温泉から戻ると、仕事たちが手ぐすね引いて待ちかまえていた。
リフレッシュした元気を糧に、それらを必死にさばいて、とりあえず前期の最終日を迎えた。

懸案事項をできるだけこなして、後は締切まで余裕のある成績つけや報告書だけを残すようにした。

なのでもう頭はフラフラ。

そんな今日が、干支を一巡した 自分の生誕日。
干支の一巡は、その思想によれば、生命の一巡を意味する。
人生の後半どころか、終焉を意味している。
なので、一巡したら赤児としての再生の儀式をしたものだった。

実際には、歳をとれば時間を短く感じてしまうこともあり、
「これまで長く生きたなぁ」という実感はまったくない。
むしろいまだ若輩レベルに留まっている感がある。

でも、確かに身体は老化が進んでいる。
一昨年は白内障の手術をし、昨年は顔のシミのレーザー治療をした。
眼鏡は老眼対応だし、難聴も進んでいる。
膝の痛みで下山ができない。 
ただし、これら部分的老化は、上に示したようにテクノロジーで対応できる。
すなわち、私の右目の人工水晶体は赤児レベルの新品だし、皮膚の再生機能を使えば、表皮の老化も局部的にはリセットできる。 

ようするに、身体は経年劣化が進んできたのに、精神は若輩のまま。
これは良い意味での「若い」 ではなく、悪い意味での未熟性を意味している。

これだけ生きてきても、いまだにこの世に慣れず、馴染めない。
失敗や戸惑いが相変わらず多く、いくつになっても生きることの難しさを痛感している。

だからこそ、生きる(在る)ことを大切にしたい。
 生きるとは「在り続ける」という存在論的・時間的営為であり、 少なくとも「在り続けようとする」動機をもっている生物にとっては、在り続けることをヨソから否定される筋合いはない。

在る者はひたすら在り続けようとすればいいのである。
それが類い稀な現象である「在ること 」の体験なのだから。

かように、人生を達観する境地には全く至っていない。

精神の成熟がなかなか進まない者にとってはなおさら、在ることを味わうには、動物的寿命では短過ぎるくらいだ。
もちろん、同僚の幾人かが見舞われている”初老期うつ病”とは無縁な気質のせいでもある。

動物はエネルギー代謝が高いので、処理器官が酷使され劣化がすぐ訪れる。
私も人生の”終焉”ではまだないだろうが、後半の後半にさしかっていることは確かだ。 

動物より1,2桁寿命が長い樹木の生命力が羨ましい。
一生身動きができないのは辛そうだけど。