定宿での二日目、日曜ということもあり、あえて仕事をせずに一日を過す。
まずは中津川市の鉱物博物館まで広域農道を飛ばして、企画展「美濃焼・瀬戸物と花崗岩」を見に行く。
隣接する美濃と瀬戸は日本を代表する陶器の産地だが、それを可能にしたのは、東濃から瀬戸にかけて分布する「苗木-上松花崗岩」なのだ。
この花崗岩が、断層によってできた盆地(瑞浪、多治見、瀬戸、猿投山周辺)で破砕されて風化物が堆積して陶土(粘土)層を形成したという。
つまり花崗岩の岩盤に活断層の破壊エネルギーが加わった結果だ。
なにしろこのへんには阿寺断層、屏風山断層、猿投断層が続いている。
また花崗岩は私が好きな”放射能泉”をもたらす。
すなわち、花崗岩の成分である長石がカリウム40という放射性物質を含んでいるからだ。
ちなみにこのカリウム40はわれわれの筋肉にも存在している(内部被曝し続けている)。
そして花崗岩は水晶やトパーズの宝石をもたらす。
博物館前で、水晶拾いの場があったのでトラ
イしてみた。
実際、博物館の裏手にある鎮野峠は水晶が出るという。
ただ六角柱のきれな結晶は見つけられず、紫水晶(アメジスト)の結晶を含んだ石英を拾って満足した。
次に、再開した道の駅「きりら坂下」に行く。
東濃最奥の坂下は蕎麦の産地で、ここの道の駅でその蕎麦を食べるを毎回の楽しみにしていたのだが、前回行ったら閉店となってガッカリしていた。
再開とあって、 再び「かき揚げざるそば」を賞味。
正直、今の私にはカロリーオーバーなのだが、半年に一度程度なので、太りはしないだろう。
応援をこめて売店で買物もする。
宿に戻ったものの、意地でも仕事をしないで、iPadでゲームをする。
といってもポケモンGOではなく、昔パソコンで遊びまくった「DOOM」。
私はこのDOOMシリーズ以外には熱中できない。
ただ、この手のゲームって次々と先のステージに行ってやり続けてしまうのだが、いざ熱中してやり終えた後の、疲れだけが残った空しさは今回も同じだった。
ゲームの後の空しさは、それが自分の現実生活になんら関係がない(いくら敵を倒しても現実は何も好転していない) から、というだけではない。
なぜなら、小説や映画、美術鑑賞だって、その点は同じだから。
ゲームは熱中し、興奮し、それなりの達成感もある。
だが、敵を倒すことの延々とした繰返しで、心にしみる感動がない。
すなわち「経験」としての価値がないのだ。
芸術作品にふれる経験は、日常経験以上の価値がある。
そういう価値のないゲームは、純然たる時間潰しでしかない。
そして、仕事に熱中した後と同等かそれ以上の神経疲労だけが確実に残る。
同じ疲労するんだったら、仕事していた方がよっぼど意義があったと思ってしまう。
これこそゲームが本質的に持っている”無意味さ”だ。
それでいて、しばらく触っていないと、またやりたくなってしまう。
その世界に入り込むことは快感なのだ。
せめてもの救いは、私にとってそうさせるゲームは1種類しかない点だ。