今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

美術展でいつも困惑すること

2014年01月22日 | 雑感
上野の西洋美術館で開催している「モネ:風景をみる眼」展(3/9まで)に行った。
美術作品は、生のオリジナルを肉眼で接することに、体験としての意味があると思うから。
でもそれって具体的に何だろう。

視覚刺激として、紙の図版で観るのと異なるのは、
まずは、その物理的大きさであり、画材の材質感と立体性だ。
ただ、前者は、視野角的には、実は差がない。
後者は、絵画としては逆にノイズ的な要素ともなりうる。
もちろん、色彩そのものの差もあろうが、正直、私の弁別閾を越えているかどうか疑わしい。

ある人は、生の作品には固有の”気”を発しているというが、
それは図版中の1枚ではなく、額に入れられた”固形物”として自立している効果の気がする。

結局、絵画は、単なる視覚情報ではなく、固有の”物”という客観的な対象として体験することに意味があるのかもしれない。
だから、気に入った作品を、人は”所有”したがるのだ。
それは”物”に対する、基本的な愛情表現だから。

さて、それら絵画を所有できないわれわれ庶民は、こうして美術館に足を向けるしかない。
そこで、ある困惑を体験する。
私にとって、展示されている絵画との出会いは、制限された距離と時間に規制される。
距離はロープや他の群衆によってまず他律的に制限され、
そして作品鑑賞上の適切な距離というものがあるため、それらに従う。

問題は、時間だ。
それぞれの絵画をどの程度の時間をかけて眺めればいいのか、自分で判断がつきにくいのだ。
まずは人びとの歩む”流れ”があり、ある作品では、その流れは停滞しており、
他の作品の前では逆に止ることが許されない。
それと、全体の展示量と所要時間との兼ね合いがある。
大量の展示を、個々に時間をかけて観ると疲れてしまう。
なので、どうしても”先を急ぐ”という気持ちがベースになる。

その中で、気に入った作品に出会った時は、ずっと立ち止まって、ずっと観ていたい。
時間が止ってほしい。
でも移動の列的にも、先を急ぐ的にもそれが許されないので、
後ろ髪引かれる思いで、その場から移動する。

一方、たいして気にかからない作品の前では、歩みを止めることなく、
一瞥しただけで素通りしようとする。
でも、それでいいのだろうかという後ろめたさを覚える。
もっとじっくり鑑賞すれば、きっとこの作品の価値がわかるかもしれないのに、
今、永遠の分れをしようとしている。

かように、結局、どの作品に対しても、それぞの最適な時間をかけておらず、
半ば強制された時間に追われているようだ。
これがいつも不満となる。

それは、そもそも美術展なるものが、あるテーマによる全体的構成を体験させる仕組みであるためでもある。
鑑賞者は、個々の作品にこだわるより、そのテーマを体験すべきと。
そう考えれば、毎回感じる”時間の不満”は、美術展ならではの問題なんだろう。

もっとも、常設展においても、全体を鑑賞する”流れ”の圧力には抗しえない。
そもそも”立って”観ること自体が、時間を身体的に制限する。
するとやはり、所有して壁に飾って、ソファに身を沈めて好きなだけ眺めるのが最適なのか。