博客 金烏工房

中国史に関する書籍・映画・テレビ番組の感想などをつれづれに語るブログです。

よいお年を!

2009年12月31日 | 雑記
何かもう大晦日なんですね。

今年は10月以降病気ばかりで全くいいことがありませんでしたが、来年はいい年になるといいなあと心の底から思います。取り敢えず1月6日に検査の結果が出るので、そこで結核か結核より軽い病気であることを祈ってます。結核でないとなれば、今度は他の病院に行ってもっと複雑な検査を受けなきゃなんないんですよーーー(泣)

それでは、「よいお年を」の一言に代えて例のフレーズで締めます。

革命軍は地上最強ォォォ!!
大陸軍は世界最強ォォォ!!

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『蘭陵王』

2009年12月29日 | 小説
田中芳樹『蘭陵王』(文芸春秋、2009年9月)

美貌の貴公子でありながら知勇兼備の武将として敵から恐れられたという北斉の蘭陵王・高長恭を描いた小説。正直田中芳樹の中国史小説は南朝梁の陳慶之を描いた『奔流』以外大して面白いとは思えなかったのですが、これはまあまあ面白かった。ということは適当に話や設定を作ってる部分がかなり多いんじゃないかという疑惑を呼び起こすわけなんですが(^^;)

このあたりのツッコミは既にnagaichiさん宣和堂さんが散々しており、また自分がさしてこの時代に詳しいわけではないので割愛しますが、私が特に気になったのは以下の三点。

○北朝を舞台にしている割には鮮卑色が薄い、というか無い。

管見の限り本作では「鮮卑」という言葉は1回も出て来なかったように思います。どうしても出さなきゃならない場面では「胡人」という言葉で誤魔化してますね。北斉の始祖高歓についても出自が胡人か漢人か不明なんて書いてますが、手元にあった川勝義雄『魏晋南北朝』(講談社学術文庫、2003年)を紐解くと、高歓が懐朔鎮民の出で「鮮卑風の賀六渾という呼び名をもつほどに鮮卑化していた」なんて書いてますね。とにかく鮮卑の何がそんなにイヤなのかという気がするのですが……

○やたらと『三国志』にこだわる

本作では「斉・周・陳の新三国時代」とか『三国志』を過剰に意識した表現が見られますが、『三国志』ファンは別に三国鼎立という状態に萌えているわけではありませんから…… 『三国志』ファンが朝鮮の三国時代にも興味を持っているかと言うと、そんなことはないわけでしょう。

○蘭陵王が完璧超人すぎる。

作中でも触れてますが、高氏の血を引く以上どこかおかしな所が無いとウソだと思うのですよ。せめてネルソンみたいに実は人妻に惚れているとか、自分にしか見えない白熊くんと戦場で会話して将兵にドン引きされるというような描写があれば良かったなと。

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『古代中国の虚像と実像』その5(完)

2009年12月27日 | 中国学書籍
落合淳思『古代中国の虚像と実像』(講談社現代新書、2009年10月)

本書の第10章で、前漢王朝で儒学が正式に採用されたのは(実はこの認識にも微妙に問題があるのですが、もう面倒臭いのでここでは触れません。)儒家思想が現実から遊離した理想論であったからであるとしています。

これに関連して、以前に即位したばかりの若き漢の武帝が儒学に傾倒したのはなぜだろうと考えてみたことがあるのです。その時の結論としては落合氏の推論とは逆に、武帝は儒学の説く礼制が極めてシステマチックな所に惹かれたのではないかということになりました。礼制というのは身分の等級によって生活のあらゆるものがきめ細かく区分されるというもので、その代表格が葬式や服喪の時に着る喪服を定めた喪服制です。礼制の中では当人と個人との親等などに応じて着る喪服や服喪の期間などが細かく定められています。

しかし武帝の儒学への傾倒は儒学嫌いの竇太后によって粉砕されてしまいます。その竇太后が信奉したのが黄老思想ですが、これは今で言う相田みつをの詩みたいなもんじゃなかったかと思うのです。「失敗したっていいじゃないか、人間だもの」とか、そんな感じですね(^^;) 何か難しい理屈がよく分かんない人とか年寄りにウケる要素を多分に持っていたと思うんですよ。『老子』だって言ってみれば今日のお言葉集みたいなもんですし。

若き武帝は心底そういうのがイヤだったんでしょう。「小国寡民?クソワロス」「為政者が何もせずに世の中が治まるのが良い政治?寝言は寝てから言えよwww」とか、そんな感じだったんじゃないかと。

話変わって、本書第12章では始皇帝が君主権の強化を説く『韓非子』を好み、実際その通りに君主権の強化に励んだこと、また『韓非子』の主張通りに君権を強化しようとすると、必然的に呂不韋のような権臣が排除されるといったことを述べています。これに関して、私はここ2~3年『韓非子』を紐解くたびに、この書が厨二病の産物だったのではないかという印象を強くしています。これを信奉した始皇帝も当然厨二病を物凄い勢いでこじらせていたということになるでしょう。韓非の思想=極めて厨二病的な思想という前提に立つと、李斯が韓非を排除したことなんかも何となく腑に落ちるような気がしてきます。

先秦期や始皇帝を扱ったエンタメ作品では「儒家=現実を見てない、ダサイ」「法家=リアリスト、カッコイイ」みたいな図式で語られることが多いのですが、私はこうした認識には強い疑問を持っています。

【追記】
この本を読んで、元気になったら次の論文のテーマは西周共和期にしようと思いました。人に論文の題材を提供してくれるんですから、この本は良い本なんですよ、きっと(^^;)
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ナポレオンDVD届いた&近況

2009年12月26日 | 雑記
君子蘭さん、川魚さんお薦めのアベル・ガンス監督1927年制作の映画『ナポレオン』のDVDが届きました!Amazonでお求めやすい値段で出てたので、ポチッとやっちゃったわけですね(^^;) しかしこれ222分もある大長編なんですが…… あと、3面スクリーンのシーンのシーンはそこだけシネマスコープサイズになるみたいです。(普段のシーンは4:3)

病状の方ですが、タミフルをやめて以来発熱はしていませんが、咳は止まらないという状態なので、発熱はインフルエンザの症状、咳はたぶん結核の症状ということになるようです。しかし医者は特殊な血液検査(これと普通の血液検査と、2回採血された)で結核と確定するまで治療を始めてくれない(-_-;) 「まあ、感染性の低い結核でしょうね」と言うなら決め打ちで治療を始めてくれてもいいじゃないかと思うのですが、そういうわけにもいかないのでしょうか…… (でもよく考えたら「決め打ちで治療」って、中国の医者のやり方と同じですよね。)

しかももし結核じゃなければリンパ腫とかもっとダメな病気を考えなきゃいけないらしい。どうやら考えられる症状の中で結核が一番軽い模様。ああ…… もっとも、普通の血液検査の結果はおおむね正常ということで、リンパ腫の可能性は低いということですが。

最終結果が出るのが年明けということで、夢も希望も無い正月を迎えることになりそうです(-_-;)
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『古代中国の虚像と実像』その4

2009年12月25日 | 中国学書籍
「当時周公はいなかったかもしれんが、召公はたぶんいた」件について。前回紹介した師リ簋ですが、実は「師龢父[乍殳]す、リ淑紱し、恐(つつ)しみて王に告ぐ。唯れ十又一年九月、初吉丁亥、」のあと、「王、周に在り、大室に格(いた)り、位に即く。宰琱生入りて師リを右(たす)く、王、尹氏を呼びて師リに册令(命)せしむ……」と続きます。

王が一定の形式で臣下の師リという人物に職務を命じる典型的な冊命儀礼であるわけですが、注目されるのはこの銘文で師リの介添え役として現れる「宰琱生」という人物。この琱生は「共和の政」の前後である王、あるいは宣王期のものと見られる五年琱生簋(集成4292)・六年琱生簋(集成4293)、新出の五年琱生尊(『文物』2007-8)に出現します。

これらの銘文によると琱生が召公奭の子孫であること、そして彼自身は分家の当主で、本家の当主として召伯虎という人物とその父親がいたことが分かります。召伯虎は通常『詩経』に登場する召虎と同一人物であるとされます。

そしてこれらの銘文で召伯虎及び召伯虎の父親が「公」と呼ばれており、場合によってはおそらくは召公奭の嫡流の子孫である召伯家の当主が「召公」と呼ばれることがあったのではないかと考えられます。(このあたり、実は「公」という称謂についてもっと検討しなくてはいけないのですが……)

これで共和の政の前後に「召公」と呼ばれうる人物が存在したことは明らかになったのですが、ただしこの召伯家が共和の政や宣王の即位にどれほどの関わりを持っていたのかは金文からは読み取ることは出来ません。

なお、琱生自身は琱生作宮仲鬲(集成744)によると父親の諡号が「宮仲」であったことが知られ、召仲家の当主であったと考えられます。「伯」「仲」という号の関係から、あるいは召伯虎の父と琱生の父が兄弟で、召伯虎と琱生は従兄弟同士だったのかもしれません。

このほか、『左伝』の説話がウソと言うなら小倉芳彦の『左伝』分類法でも紹介すれば良かったのにとか、『孫子』を孫子が書いてなくて何が悪い!とか、せっかく諸子を取り上げるなら近年陸続と発表されている戦国竹簡を取り上げ、先秦の書とはどういうものだったのかという話をもっとしっかりすれば良かったのにとか、本書のツッコミ所は数限りなくありますが、もういい加減疲れたのでもうやめます。

次回、本書の記述をネタにバカ話をして締めます。
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『古代中国の虚像と実像』その3

2009年12月23日 | 中国学書籍
前回の続きです。金文については師キ簋(殷周金文集成(以下、集成と略称)4311)を取り上げ、この銘で伯龢父(すなわち共伯和)が配下の師キに対して職務を命じているが、その形式が王の行う「冊命」という儀礼を模していること、またこの銘の「王の元年」という紀年が共伯和が王位に即いた元年を指すとしています。

しかし実のところ貴族が冊命儀礼の形式を模して配下に職務を命じた銘文はこれが唯一というわけでもなく、他にも存在するのです。例えば西周中期のものとされる卯簋蓋(集成4327)では

「唯れ王の十又一月、既生霸丁亥、榮季入りて卯を右(たす)け、中廷に立つ。榮伯呼びて卯に命じて曰はく、「乃(なんじ)の先祖考に在りては榮公の室を死司(おさ)めり。昔乃の祖も亦た既に命ぜられ、乃の父も■人を死司めり。……今余唯れ汝に命じて■宮・■人を死司めしむ、汝敢へて善からざる毋かれ。汝に瓚四・璋・■・宗彝一肆・寳を賜ふ。汝に馬十匹・牛十を賜ふ。乍に一田を賜ひ、■に一田を賜ひ、隊に一田を賜ひ、載に一田を賜ふ。……」

とあり、やはり冊命儀礼の形式を模して榮伯が配下の卯という人物に職務を命じています。従って師キ簋を共伯和が王位に即いたことを示す史料として用いるのはかなり無理があると言わざるを得ません。なお、師キ簋の紀年については共和元年ということで一応暦の計算が合うようですが、もしそうであれば「王の元年」の「王」とはおそらく宣王を指しているのでしょう。

前回・今回の考察の結論として、共伯和が王位を簒奪したというのは根拠が薄弱で、従来のように共伯和が暴君の王を放逐した後、幼少の宣王を擁立して摂政のような地位に即いたと理解しても特に何の問題もないということになります。

なお、金文にはこの他に共伯和の死を記したと考えられるものが存在します。それが師リ簋(集成4324~25)で、その冒頭には「師龢父[乍殳]す、リ淑紱し、恐(つつ)しみて王に告ぐ。唯れ十又一年九月、初吉丁亥……」とあります。この銘では共伯和は師龢父と呼ばれています。

「師龢父[乍殳]す」とは「師龢父殂す」、すなわち師龢父が亡くなったことを意味し、この文はリという人物が王に共伯和の死を報告したという内容となります。文中の「十又一年九月、初吉丁亥」という紀年は共和十一年でも宣王十一年でも暦の計算は合うようですが、取り敢えずこの銘によれば共伯和は宣王側によって誅殺されず、畳の上で死んだということになるようです。

また「恐(つつ)しみて王に告ぐ」という文からは共伯和への一定の尊重が読み取ることができ、あるいは共伯和から宣王への政権交代は平和裏に進められたのではないかと思わせます。(それは単なるあんたの印象ではないかと言われるかもしれませんが……)
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CT受けた

2009年12月22日 | 雑記
今日肺のCTスキャンを受けて来たものの、結果が知らされるのは年明け。それまで針のムシロ状態や(-_-;) 仮に体調万全でも忘年会にも行けない。辛い……

あと、録画してた『坂の上の雲』第3・4話を見ましたが、きっちり面白いですね。映像・脚本と力が入っているのが見て取れます。今年の大河は『天地人』じゃなくて『坂の上の雲』第1部だったということでもういいじゃないかという気が。
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『古代中国の虚像と実像』その2

2009年12月22日 | 中国学書籍
落合淳思『古代中国の虚像と実像』(講談社現代新書、2009年10月)

本書第5章において著者は西周王の後の共和の時代を共伯和によって王位が簒奪された時代であるとしています。これに対して私は以前のエントリで「共伯和が王位を乗っ取ったかどうかはわからん。ぶっちゃけ、私は通説通りでも問題ないと思う。」とコメントしましたが、今回はそれについて。

著者が共伯和王位簒奪の根拠として挙げている史料は『古本竹書紀年』の「共伯和が王位を簒奪した」という一文と、金文の師キ簋(集成4311)です。まずは『古本竹書紀年』の記述の方か検討していきます。実はこの書において簒奪者とされているのは共伯和だけではありません。

まずは夏の時代に初代の禹が没した後、益という人物が禹の息子の啓の王位を乗っ取ったことになっています。『晋書』束皙伝で引用される『古本竹書紀年』では「益、啓の位を干し、啓、之を殺す」とあります。なお、『史記』夏本紀では禹が死ぬ前に臣下の益という人物に禅譲し、次の天子としたが、諸侯たちが心服せずに禹の子の啓を慕ったため、益は天子の位を啓に譲ったとしています。

また殷王朝建国の功臣である伊尹もこの書において簒奪者とされています。『史記』殷本紀では湯王の孫である太甲が暴虐であったのでこれを桐宮という所に放逐し、その間伊尹が政治を代行。そして3年後に太甲が心を入れ替えたのを見ると宮廷に迎え入れて政権を返上したとしています。

ところがこの話が『古本竹書紀年』にかかると「仲壬崩ずるに、伊尹、大甲を桐に放つ、乃ち自立するなり。伊尹、位に即き、大甲を放つこと七年、大甲潜かに桐自り出で、伊尹を殺す」(『春秋経伝集解後序』などの引用)、つまり、王の仲壬が亡くなると伊尹は大甲を桐に追放して自ら王位を簒奪。そして7年後に密かに追放先から脱出した大甲に殺害されたという話に化けているのです。

実のところ『古本竹書紀年』という書自体は現存せず、その逸文が他の書に引用されているのみで、また西周成王の時代の記述など欠落している部分も散見されるのですが、仮に成王の時代の部分が残っていたとしたら、成王の摂政とされる周公旦も簒奪者に仕立て上げられていたことは想像に難くありません。

つまり『古本竹書紀年』という書は臣下が政権を握るとこれを簒奪と解釈する傾向があるわけです。となると、共伯和が簒奪したという記述も当然歴史的な事実がどうか疑われますし、こういう史料としての性質を理解せずにその内容を鵜呑みにするような著者の姿勢には疑問を感じざるを得ません。

最近中国の清華大学が戦国時代の竹簡を購入し、その中には「西周から戦国初めまでの編年体史書」も含まれているということです。(詳しくはこちらを参照。)これに果たして共伯和のことが記載されているのか、そして共伯和がどう評価されているのか楽しみです。またこれを『古本竹書紀年』と比較することで、『竹書紀年』という史料の性質もより明確となるかもしれません。

長くなったので金文についてはまた次回。
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『ナポレオン 獅子の時代』

2009年12月21日 | 世界史書籍
長谷川哲也『ナポレオン 獅子の時代』(少年画報社、既刊12巻)

前々から何となく気になっていた作品なんですが、きつりさんとこのブログで紹介されているのを見て無性に読みたくなり、帰国に合わせてAmazonでポチッと購入してしまいました。

基本的にナポレオンの生涯と革命当時のフランスを描いた歴史物……のはずなんですが、ジャンプ漫画のノリを多分に持ち込んでしまったおかげでクートンが車椅子に銃や大砲を仕込んでバラス率いる兵卒と戦ったり、マッセナが女と(ピー)しながら戦場を駆け巡ったり、総裁カルノーがナポレオン配下の部将オージュローと一騎打ちして互角に渡り合ったりと、とにかくフリーダムな描写に溢れています。

もっとも、このあたりは著者自身がこの作品を歴史漫画ではなく番長漫画だと公言しちゃってるわけですが…… ということは中途半端な死に方をしたサン・ジュストは生きていると期待していいんでしょうか!?

あとは兵卒の行軍の壮絶さを延々と描写しているのが目につきますが、こういうのを見てるとナポレオンの勝利は彼の戦術がどうこうと言うよりも兵卒の気合いと根性の賜物だったんじゃないかという気がしてきます。昔の毛沢東の長征もこんな感じの地獄の行軍だったのかのうと思うと何だかしみじみしてきます。
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『古代中国の虚像と実像』その1

2009年12月20日 | 中国学書籍
落合淳思『古代中国の虚像と実像』(講談社現代新書、2009年10月)

ここ数日間タミフル飲んで寝込みながら、この本の一体どこがどうダメなのかを考え続けていました。で、出た結論としては、古籍の説話にツッコミを入れること自体が悪いわけではない。また著者が提示する「実像」もそれなりにもっともなのが多い。(もっともでない点については次回以降触れていきます。)しかしツッコンだらツッコミっぱなしで「ではどうしてそのような『虚像』が創作されたのか?」「そのような『虚像』が受容された社会とはどんなものだったのか?」について全く触れていない点ではないかと思い至りました。

少なくとも最後の章あたりでそれについて触れておれば、本書の印象も随分違ったものになったのではないかと思います。(あと、本書ではしばしば説話の「捏造」という言葉が使われていますが、「創作」という言葉の方が適切だと思います。)それこそ「『史記』にもっともらしく記載されている個人の密談なんて誰が聞いてたんじゃーーーーっ!」とツッコムだけなら、前回も触れたように宮崎市定が既にやっているわけですから。

中華圏の近年の研究を振り返っても、王明珂『華夏辺縁』は経書などに見える王侯の祖先神話を創作としつつも、それが創作され、受容された背景についてしっかり考察しています。また郭永秉『帝系新研』「古帝王の説話が史実を踏まえているなんて一体何の根拠が?あんなの戦国時代に創作された伝説ですよ!」というようなことを述べていますが、これは本書の結論ではなくあくまで出発点です。

つまり現在の研究は既に説話が史実ではないと認識したうえで、その意味を探るというところまで進んでいるのです。となると、本書の問題点はやはり説話を「虚像」と切って捨てるだけでそこから話を広げていないことということになるでしょう。

以上がまずは本書の総評。
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