博客 金烏工房

中国史に関する書籍・映画・テレビ番組の感想などをつれづれに語るブログです。

『楚漢伝奇』その11

2013年09月30日 | 中国歴史ドラマ
『楚漢伝奇』第68~74話まで見ました。

司馬欣の一件以来項羽との仲が修復しきれなくなった范増は、遂に楚の軍営を出奔。項羽はそれを知って范増を追わせますが、時既に遅く、范増は帰らぬ人となっていたのでありました…… せめて亜父の意志を継ごうと、滎陽に総攻撃を仕掛ける項羽。

これを承けて滎陽城を捨てて逃亡することにした劉邦ですが、陳平はその劉邦の身代わり役として紀信に目を付けます。紀信自身はこのドラマの序盤(邙碭山に立てこもったあたり)から劉邦の配下として登場していましたが、口の悪さが災いしてこれまで出世できなかったという設定。このドラマ、本当にこういう人物の配置だけは周到なんですよね……

で、紀信のお陰でまんまと項羽を出し抜いた劉邦は韓信の軍営に乗り込み、大将軍の印璽と兵を奪取。韓信「あ…ありのまま今起こった事を話すぜ!『おれは自分の陣幕で寝ていたと思ったら、いつのまにか漢王が来ていて印璽と兵隊を奪っていった』な…何を言っているのかわからねーと思うが、おれも何をされたのかわからなかった… 頭がどうにかなりそうだった… 催眠術だとか超スピードだとかそんなチャチなもんじゃあ断じてねえ。もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ…」

しかもその状態で龍且&田広の連合軍と戦うことを余儀なくされる韓信さん。さすがに悪いと思った劉邦から援軍と兵糧が寄越されてきたと思ったら、自陣に到着する前に途中で敵軍に襲われて半減する始末\(^o^)/ そんな状況できっちり勝利して龍且を敗死させる韓信さんは本当にエラいと思います(^^;) ここで韓信が劉邦に斉の仮王の地位を要求し、「仮王とは何事か!」と却って斉王の地位を与えられるイベントが発生。

そして漢楚両軍が広武山で対峙。項羽は劉太公を釜ゆでにしようとしますが、それを見た劉邦は「じゃあそのスープを寄越してくんな!」と切り返し。項羽を罵倒しまくる劉邦に一矢報いてみれば、胸に命中したはずなのに何ともないふり。本当に煮ても焼いても食えないおっさんですな……

しかしその劉邦も自陣に戻った途端に矢傷から人事不省に。「劉邦の死期が眼前に」とおろおろする重臣たちを前に、自分が生んだ如意を後継に据えようと立ち回り、評価を下げまくる戚姫。これに対し、劉邦の矢を抜くことを決断したりと重要な役割を果たし、評価を上げる薄夫人。これは戚姫本人よりもそのブレーン(戚夫人の叔母の満姑)が責められるべきかと思いますが、単なる腹黒いだけの市井のおばちゃん(満姑)と元魏豹の女軍師(薄夫人)とでは、最初から勝負はあったも同然かもしれません……
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『楚漢伝奇』その10

2013年09月21日 | 中国歴史ドラマ
『楚漢伝奇』第61~67話まで見ました。

さて、魏国では魏豹が項羽側に着くことを決断する一方で、薄夫人が占い師から「将来天子の母になる」と予言され、魏豹は「ならばオレは天子の父親か!」と有頂天になります。実際には後に薄夫人が劉邦の側室となり、その間に生まれた子供が文帝になるという含みなのですが…… ちなみにこのドラマの薄夫人は、下の画像のように地味顔のおばさんで、なぜか魏豹の軍師役となっています。(そう言えば于正の『美人心計』でも薄夫人は知謀冴え渡る呂后のライバルというキャラクターになっておりました。)



しかし魏軍は韓信に散々に敗れて魏豹・薄夫人の夫婦ともども捕らわれて劉邦のもとに差し出され、薄夫人はそのまま劉邦のもとに留まることに。

ついで九江王英布を劉邦側に寝返らせようと、随何が使者として派遣されますが、英布が自分と謁見しないとなれば、自分の宿泊する駅館に放火して騒ぎを引き起こし、項羽の使者が来ているとなれば、謁見の場に乱入してその場で使者を殺害。こいつのやってることは地味にDQNですな……

一方、項羽は劉邦の動きを軽くスルーして、自分に従おうとしない斉に出兵→斉兵を鎮圧→項羽撤退→項羽のいない間に斉兵が反攻→項羽が出兵……というのをループのように繰り返しております。その間に彭城に人質というか奴隷になっている呂雉らが脱走をはかりますが、楚側に見つかって失敗。だから合間合間にこうやって呂雉が苦難を歩む展開をねじ込むのは見ていて悲しくなるからやめろ(´;ω;`)

で、英布を服属した漢軍は、韓信の背水の陣によって趙軍を撃破。そして項羽が斉から戻り、滎陽で漢軍と対峙することになった楚軍に対し、陳平が離間の計を仕掛けることを提案。しかしそれには一万金の工作資金が必要だということで、劉邦「それで成功率はどれぐらいなんだ?」 陳平「2、3割といったところでございます」 劉邦「ならば二万金ならどうだ?」 陳平「5割ですな。」 劉邦「四万金なら?」 陳平「100%成功間違いなし!」 劉邦「よし、国庫から四万金持ってけ!」 と多額の資金をゲット。一万金ほど陳平が自分の懐に入れてそうな気もしますがw

まずは秦の降将司馬欣がターゲットに。流言・偽文書など様々な手を駆使して漢と密通しているというイメージを植え付けられたうえ、直属の上司曹咎が成皋を失って戦死する一方で自分が生きて帰ったことで、とうとう項羽に呼び出されることに。項羽に「俺はお前のこと疑ってるわけじゃないんだけどさ、他の連中の手前もあるしさ、今までの自分の言動を振り返って反省文でも書いてよ」と言われてしまいます。

その手の反省文を書かせて目障りな人間を精神的に追い詰めるのは、大躍進とか文革の頃の風習や(´Д`;) で、それを軽く拒否ると獄中でムリヤリ反省文を書かされることになり、自分が裏切り者という汚名を晴らせないと絶望し、象牙の箸で胸を突いて自害。象牙の箸というと、殷の紂王が象牙の箸を使っているのを見て、箕子が殷王朝の行く末を察したという『韓非子』のエピソードが思い出されますが……

結局司馬欣は非業の死を遂げても裏切り者として処理されてしまい、項羽は彼を庇い続けた范増を疎んじるようになっていきます。
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会津幇会 その2(完)

2013年09月19日 | 旅行・オフ会・展覧会
1日目は好天となりましたが、2日目の午前中は生憎の(というより予想通りの)雨天に。まずは白虎隊自刃の地である飯盛山に向かいます。



その飯盛山にそびえるイタリアのムッソリーニから贈られた記念碑。柱の部分はポンペイの出土品であるとか何とか。何でそんなものが……というか、ここにあっていいものなのだろうかと思わず不安になりました(^^;)



その後は鶴ヶ城へ。



こちらは2年前に当時の様子に合わせて写真のような赤瓦に葺き替えられたとのことで、内部の展示も大河に合わせてリニューアルされている模様。お昼は大正時代から続く渋川問屋にて、郷土料理のこづゆやニシンの山椒漬けなどを頂く。写真が悲しいまでにぼやけてます。こづゆは2日目に泊まったホテルリステルのバイキングでも食べました。



そして午後からは会津藩主の庭園兼薬草園の御薬園と会津武家屋敷を訪問。雨が酷くなれば午後の観光は厳しいかと思われましたが、このあたりから雨が上がってきました。御薬園では、会津ゆかりの人物ということで秩父宮妃に関係する植物もあり。(秩父宮妃は松平容保の孫にあたる)下の写真はイギリスのハークネスより捧げられた薔薇プリンセス・チチブ。



会津武家屋敷は幕末の会津藩家老西郷頼母の屋敷などを復元した野外資料館ですが、そこにひっそりと中国清朝の道光年間の年号が入った謎の拓本が……



3日目は会津藩藩祖保科正之を祀る土津神社などを訪問する予定でしたが、悪天候により観光を取りやめ、早めに帰路に就くことに。午前中には最寄りの鉄道は既に運休となっていましたが、宿泊していたホテルリステルのお計らいにより、上越新幹線の発着駅である郡山駅までリムジンを出してくれることに。これが無ければ確実に現地でもう一泊することになっていたはずなので、感謝です!
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会津幇会 その1

2013年09月18日 | 旅行・オフ会・展覧会
9/14~16まで、きつりさん主催の会津幇会に行ってました。

当然台風18号に巻き込まれて最終日の移動に難儀したわけですが、それもこれも山川健次郎関係の展示を見るたびに「クネ男、クネ男!m9(^Д^) 」とネタにしたバチが当たったのかなと。


日新館の山川健次郎記念碑。

(一応ネタの説明をしておきますと、大河ドラマ『八重の桜』で後年の初代東大総長山川健次郎を演じている勝地涼という人が、朝ドラの『あまちゃん』では前髪クネ男というあだ名の、健次郎とは対極に位置するかなりアレなキャラクターを演じているのです。)

初日は日新館→阿弥陀寺の藤田五郎・時尾夫妻の墓地、二日目は飯盛山とその周辺→鶴ヶ城とその周辺→御薬園→会津武家屋敷の順で見て回り、三日目は天候の都合で観光を取りやめて移動日というスケジュールでした。

会津藩の藩校日新館は当時の建物ではなく、昭和62年に別の土地に復元されたものですが、孔子を祀る大成殿を中心とし、その周囲に新月型のお堀の泮水を配置するという中国式というか、儒教式の学校建築となっています。(そもそも日新館という名前自体が四書のひとつ『大学』の文句より取られたものですが)館内は結構広いように見えましたが、当時の実際の建築と比べるとミニチュアサイズのようですね。



当時の建築のうち、天文台の跡だけが鶴ヶ城周辺に残ってます。ここは二日目に行きました。住宅地のど真ん中に埋没していて案内の看板とかはありません(^^;) こういう状況だと、当時と同じ場所に日新館を復元するというわけにもいきませんね。



そして日新館の端に安置されている謎の文殊菩薩像。康煕二年に中国より贈られたと説明にありましたが、蓮華座ではなく獅子に文殊菩薩が乗るという形式が中国っぽいと言えばぽい?



その2に続きます。
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『楚漢伝奇』その9

2013年09月08日 | 中国歴史ドラマ
『楚漢伝奇』第54~60話まで見ました。

項羽による義帝殺害を承け、劉邦はいよいよ挙兵を決意。項羽が斉に出兵している隙を突き、諸侯連合軍とともに彭城への入城を果たします。この時に趙国に出兵を求め、趙相の陳余から張耳の首を要求されると、取り敢えずその場しのぎに偽の首を送って陳余を騙しますが、彭城入城後に劉邦の面前で当の陳余と張耳が鉢合わせしてしまい、一悶着に。一応『史記』にあるエピソードを膨らませたものですが、こんな話をわざわざ丁寧に取り上げなくてもと思ってしまいます(^^;)

鬼の居ぬ間に洗濯を決め込む劉邦ですが、項羽が斉より引き返し、韓信の裏をかいて彭城を急襲。この時劉太公や子供たちとともに城外を馬車で移動していた呂雉ですが、急変を察して逃亡している最中に子供達とはぐれてしまいます。その後劉太公とともに豊邑へと逃れますが、飛び込んだ先がよりによって曹氏の家。これまでの因縁をめぐって一気に修羅場となるものの、項羽配下の龍且がやって来るとお互いにかばい合い、仲良く囚われの身となって項羽のもとへと送られます。

一方、彭城から命からがら逃げ延びた劉邦は、母親の呂雉とはぐれた劉楽・劉盈と合流しますが、楚軍の追っ手が迫ると馬車から子供たちを追い出し、そのたびに夏侯嬰が拾い上げるというお馴染みのエピソードが展開されます。後でこのことを問い詰められた時の劉邦さんの弁。「このまま一緒に逃亡したら子供たちが乱戦の中で射殺されてしまいかねない状況で、いっそ項羽に捕まった方が安全だと思った。あいつは婦人の仁の持ち主だから、子供までは殺しやしないはず。」その発想は無かったw

その項羽は捕らえた呂雉と劉太公の処置を問われると、「面倒くせえ、殺せ!」とか言ってますが(^^;) で、范増に「人質にするから殺しちゃいかん」と諫められると、今度は「面倒くせえ、釈放しろ!」とのお言葉。項羽には0か1かどっちかしか無いんですな……

劉邦は無事に沛に逃げ込むと、敗走のショックからすっかり意気阻喪してしまいます。しかし蕭何に諫められてやる気を取り戻し、滎陽へと入城すると、諸将の前で反省会兼ミーティングを始めます。高希希は歴史物でこういうミーティングのシーンを入れるのが好きですねw

で、劉邦が滎陽にいると聞いて戚夫人も息子の劉如意とともに駆けつけます。馬車の中で息子に「私たちが生き延びるには、あなたが太子になるしかないのよ」と教え諭していますが、それはむしろ死亡フラグなんですが……
コメント (4)
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