博客 金烏工房

中国史に関する書籍・映画・テレビ番組の感想などをつれづれに語るブログです。

いよいよ明日

2007年09月29日 | 雑記
いよいよ明日が金庸シンポジウムなわけですが、今日は今日で所用で出掛けていてヘロヘロだったりします(^^;) 風邪がぶり返さないことを祈って明日に備えることにします。なお、金庸先生は急病のため来日を取り止められ、代わりに岡崎由美先生が登壇されることになったとのことです。

シンポジウムの報告は火曜日の晩あたりにアップする予定です。
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『百家講壇 孔慶東看武侠小説』その2

2007年09月28日 | TVドキュメンタリー
太秦映画村で開催の金庸シンポジウムにむけて、景気づけのためにアップしておきます。今回は第5集から第8集までを鑑賞。

第5集「金庸小説中的悲劇愛情」
「金庸小説は愛情の百科全書」というコンセプトで胡斐と袁紫衣・程霊素、葉二娘と玄慈、蕭峰と阿朱・阿紫・康敏(馬夫人)との恋愛関係について論じています。あんた、そんなに『天龍八部』と蕭峰が好きかとツッコミたくなってきます(^^;) 蕭峰と康敏(馬夫人)との関係が、『水滸伝』の武松と潘金蓮などと同じく、英雄が悪い兄嫁を殺すという図式に則っているという指摘が面白いです。(ただ、康敏の場合は蕭峰ではなく阿紫に殺されるわけですが)

第6集「伝統武侠小説中的武功」
武侠小説によく見られる武功は、実は20世紀に作られたものが多い。『近代侠義英雄伝』等の著者の平江不肖生は内功と外功の概念を武侠小説に取り入れ、また霍元甲の死因を内功の修練に失敗したため(すなわち内傷を負ったため)としている。趙煥亭は内功を外功の基礎とする武術理論を作り上げ、軽功や暗器を武侠小説に導入し、また「武功」という語を創始した。『蜀山剣侠伝』の著者の還珠楼主は神仙劇の世界観と武侠小説とを融合させ、ファンタジックな武器や武功を作り上げた。

白羽と鄭証因は拳法・掌法・軽功・兵器・暗器などの体系を作り上げた。金庸小説でお馴染みの「弾指神通」・「蝦蟇功」も元々彼らがネーミングした武功である。黒社会的な幇会と武侠小説を結びつけたのも彼らで、「武林」の語は白羽が創始した。

第7集「金庸小説中的武功(上)」
金庸小説の武功は視覚美を重視しており、血腥さを感じさせない。これは残虐な場面を敢えて詳細に記述しないという中国文学や映画などの伝統と一致している。これに対して古龍は敢えて血腥さを感じさせるような描写を取り入れている。また、梅超風の九陰白骨爪、洪七公・郭靖・蕭峰の降龍十八掌など、武功や武器をキャラクターの人格・性格と結びつけているのも金庸小説の特徴である。

武侠小説でよく見られる武器のうち、剣は装飾品としての性格が強く、貴族・知識人・名士の象徴である。梁羽生作品の主人公は剣を得物とすることが多い。これに対して刀は実用品としての性格が強く、平民・下層民、あるいは自由の象徴である。古龍作品のキャラクターがよく得物としている。一方で黒社会のやくざ者などは武器を使うのを潔しとせず、徒手空拳による戦いで決着をつけることを好む傾向がある。

第8集「金庸小説中的武功(下)」
『神雕侠侶』の独孤求敗が弱冠前に宝剣を用い、三十歳前に紫微軟剣を用い、四十歳前に重剣(玄鉄剣)を用い、四十歳以後は木剣を用いたというのは、『論語』の「吾十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑はず……」といった句を踏まえたものである。武侠小説は畢竟、実戦での戦い方を学ぶものではなく、人生の方法を学ぶものである。その他、『天龍八部』第26回の「蕭峰打虎」(完顔阿骨打が初登場するシーン)が『水滸伝』の武松の虎退治を踏まえたものであることなどを論じる。

第5集と第8集で『水滸伝』と『天龍八部』との類似性について語っていますが、そもそも最初にまず段誉が登場し、段誉が蕭峯と出会うと今度はその蕭峯が主役となり、その後は虚竹が主役となるといった物語の構成自体が『水滸伝』のそれを踏襲したものですし、この両作品の比較はもっと突き詰めてもらいたいところです。

それと孔慶東氏、「愛情」をテーマにするとどうにも話が退屈になるのですが、困ったことに金庸作品の愛情をテーマにした回があと2つも残ってるんですよねえ。どうしたものでしょうか……
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『漢文力』

2007年09月27日 | 中国学書籍
加藤徹『漢文力』(中公文庫、2007年8月)

現代社会の問題や人生の問題を考えるためのヒントとして漢文を読んでみよう!そういった視点で書かれた漢文入門書です。語り口も平易ですし、高校生ぐらいの年代に読んで欲しい内容ですね。高校教育で漢文に割く時間が減っている昨今、こういう現代的な視点から漢文に興味を持たせるような努力をしていかないといかんのかもしれんなあと考えながら読んでました。
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やばい…

2007年09月25日 | 雑記
どうやら風邪をひいてしまったようです(-_-;)

朝晩急に涼しくなったり、周りに風邪ひきがいたりしてイヤな予感がしていたのですが…… 色々イベントの控えている週末までに何とか治さねばなりますまい。取り敢えず今日は薬を飲んで寝ます。
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『百家講壇 孔慶東看武侠小説』その1

2007年09月23日 | TVドキュメンタリー
『百家講壇』は『その時歴史が動いた』と放送大学を足して二で割ったような番組で、各分野の専門家が中国文学や歴史、哲学について講義をするというシリーズ番組です。最近では『論語』や『荘子』、『三国志』、ドルゴン、和珅などを扱ったシリーズがそれぞれ好評を博したとのことですが、金庸小説を扱ったシリーズもあると知り、矢も楯もたまらずにDVDを注文。これが今回鑑賞する『孔慶東看武侠小説』全14集であります。

演者の孔慶東氏は北京大学中文系の副教授ということですが、番組では気合いを入れてカンフースーツで登場です。番組では合間合間に金庸作品のドラマ版の一場面が挿入され、それも見所となっています。以下、第1集から第4集までの要旨と気になった点です。

第1集「金庸小説的情愛世界」
郭清と黄蓉、楊過と小龍女、福康安と馬春花、李文秀の恋愛について取り上げる。『射英雄伝』の黄蓉は男性顔負けの才知を備え、常にその才知でもって男性を圧倒し、男性の審美対象となることを拒絶している。またグズな郭靖を一人前の侠客に育て上げた。このようなヒロイン像は金庸が初めて作り上げたものである。楊過と小龍女の恋愛は礼法が最も厳しかった南宋期の時代背景によって見る必要がある。この二人の恋愛がタブー視されるのは、今で言えば男子生徒が若い女性教師と結婚しようとし、周囲の大人が反発するようなものだ。

……補足すると、師弟の間での結婚を禁じるというタブーは中国人読者にとってもいまいちピンと来ないものであるらしく、金庸には当時ホントにこんな風習があったの?とツッコミが寄せられたこともあるとのこと。金庸は改訂第三版で注釈という形で長々とこの問題に対して論じています。でもこの例えの方がわかりやすいですよね。

第2集「金庸小説的奇情怪恋」
梅超風と陳玄風、李莫愁、裘千尺と公孫止、韋小宝と七人の妻など、小人物や悪人の情愛について論じる。李莫愁が「情痴」であるのに対して裘千尺は「情覇」と言うべきであり、彼女は情愛の覇道を歩もうとしたという表現が面白い。また元好問の詩の一節「問世間、情是何物」はそれほど知られた句ではなかったが、『神雕侠侶』によって一気に有名になったという。

第3集「武侠小説中的侠義」
侠義精神と武侠小説の誕生・発展を歴史的に見ていく。墨家の「侠」と儒家の「文」は古来ともに世を乱すものとされ、似たり寄ったりの概念であると見なされていた。そして「文」を担う文人が武侠小説の書き手となって自らの理想をこめることになる。(この辺りは武侠小説の専家である陳平原氏の見解の引用であるとのこと。)

印象に残ったのは、『水滸伝』を前近代の武侠小説の典型と見なす一方で、『包公案』などの公案小説を、結局包拯ら名裁判官を目立たせるだけで侠客の功績や個性を埋没させるものとして低く評価していることと、譚嗣同・秋瑾・霍元甲らとともに雷鋒を「当代第一大侠」として高く評価していることです。

第4集「金庸小説中的侠義」
金庸小説は武侠の「武」よりも「侠」の部分を重視している。初期の作品に登場する陳家洛・袁承志・郭靖・胡斐は『孟子』にいう「大丈夫」を体現した「儒家の侠」で、彼らは革命精神を持ち、熱烈な共産党員のようである。ついで中期の作品には楊過・張無忌・令狐冲ら国のため民のために戦う一方で、個人の生活や自由も重視する「道家の侠」が現れるが、『天龍八部』の三人の主人公は武功や義侠心では解決できない宿命を背負わされており、「仏家の侠」と言うべきである。『天龍八部』は宗教思想の入門書としても有用である。

金庸小説は100%の善人がいないかわりに100%の悪人もいないという前提で書かれており、『連城訣』は特に善人が過酷な状況の中で悪人となるという「侠の弁証」のテーマが課されている。また『鹿鼎記』は「反侠」がテーマとなっており、武功が使えず、悪知恵しか無いような韋小宝が活躍するのは、陳家洛のような文武両道の才子や陳近南のような大侠へのアンチテーゼである。

第1集・第2集あたりでは講義のつまらなさにDVDを購入したことを後悔しかけましたが、第3集・第4集で雷鋒を大侠だと言い張ったり、陳家洛らを熱烈な共産党員に例えたりと、ようやく口のエンジンが回り出したようです(^^;)
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『三国志研究入門』

2007年09月22日 | 中国学書籍
渡邉義浩著・三国志学会監修『三国志研究入門』(日外アソシエーツ、2007年7月)

学術方面からの『三国志』入門で、後漢~魏晋の政治史・思想史が専門の著者が、『三国志』の基礎知識から史料、政治史、経済・法制史、思想史・宗教、文学など分野別に中国のものを含めた研究動向をまとめています。論文の書き方や中央研究院漢籍電子文献などのデータベースの扱い方も詳しく説明しており、かなりの親切設計です。

しかし『三国無双』シリーズにハマってる今時の若いもんは、正史『三国志』や『三国志演義』にどんだけ興味を持っているもんなんでしょうか。パソコンゲーム誌の『三国志』コーナーで武将伝や正史と演義の違いといった話題が熱く語られ、『三国志』武将ファイルなんかが売れていた90年代半ば頃までにこういう本が出ていたらまた反応が違ったんだろうなあという気がします。もっとも、その時分には三国志学会も、無料で気軽に使えるデータベースも無かったわけですが……

あと、研究動向は『三国志演義』の形成史や受容史にもっと紙幅を割いても良かったと思います。
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金庸と古龍のネーミング比較

2007年09月20日 | 雑記
考古発掘情報を載せなくなってから『国学網』をほとんどチェックしていなかったのですが、今日ふと気が向いてのぞいてみたところ、金庸・古龍作品の論評がアップされていたので、取り敢えずリンクしておきます。

『国学資訊』「金庸・古龍:従人物取名看性格差異」
http://news.guoxue.com/article.php?articleid=12511

要するに金庸・古龍お二方のキャラクターネーミングから作品性の違いを読み解いていこうというネタです。

金庸は女性キャラの、古龍は男性キャラのネーミングに気を遣っているということですが、お二方ともちゃんと古典を典拠にネーミングしたりしてるんですなあ。(もっとも、このコラムの著者がムリヤリこじつけてるっぽいものもありますが……)

古龍は複姓を使いすぎ!というツッコミもありますね(^^;)
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『聊斎 小謝』

2007年09月18日 | 中国古典小説ドラマ
いよいよ『聊斎』も最後のエピソードとなりましたが、この話、オープニングでは「小謝」というタイトルになってましたが、エンディングでは「小謝与秋容」となっているんですよね。取り敢えず原典の方も同じ題名ということで、「小謝」のタイトルを採っておきます。(しかし題名が食い違う場合は巻頭の題を採るとか、まるで書誌学の話みたいですな(^^;) )

話はともに書院で学んでいた陶望三と姜芊芊が、芊芊の実家の姜府に戻るところから始まります。二人は相思相愛ですが、芊芊の父親の姜侍郎は胡散臭い陶望三と娘を別れさせるために、彼をいわくつきの姜府の別邸に住まわせることにします。実はその別邸には小謝や秋容といった若い女性の幽霊が集団で住み着いているのでありました。

彼女らは怪現象を起こして陶望三を追い出そうとしますが、彼はそれをモノともせずに居座り続けます。やがて幽霊たちも彼と打ち解け、特に小謝は陶望三に恋心を抱くようになりますが……

このエピソードでは、タイ出身の中国系俳優TAEがお気楽極楽な書生・陶望三を好演してます。幽霊達のリーダー秋容に人間と幽霊は陰陽を異にするものだから小謝らと仲良くするのをやめろと諭されても、そんならと彼も幽霊達と同じく昼に寝て夜に活動する生活に切り替え、しかも小謝らに夜な夜な『三字経』だの『詩経』だのを教え始める始末。愉快に暮らし続ける彼らですが、秋容の死因が姜家の祖先と深い関わりがあると判明したあたりから物語が大きく展開していきます。

【総括】

6つのエピソードそれぞれに見所がありましたが、お気に入りの話を挙げろと言われれば、原典の筋書きやシチュエーションをうまく生かし、かつバカップルぶりを見せつけた朱爾旦夫婦や、乳母子を溺愛する女道士・苗婆婆といったキャラクターが印象的だった『陸判』と『阿宝』に軍配を挙げたいところです。

この作品、『聊斎奇女子』という続編も最近リリースされましたが、ちょっと食指が動きません。こちらの方は全4エピソードで全38話ということで、1エピソードあたり平均10話前後割り当てられているという計算になりますが、この話数だとどうも話が間延びしちゃってるんじゃないかと思います。原典自体がそう長いものではありませんし、今回のように6話ぐらいでまとめちゃうのが丁度いいと思うのですが……
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『古事記のひみつ』

2007年09月17日 | 日本史書籍
三浦佑之『古事記のひみつ』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー、2007年4月)

『口語訳古事記』の著者による『古事記』考証本です。

『古事記』と同時期に編纂されたとされる『日本書紀』と『風土記』がそれぞれ本来中国風の紀伝体史書である『日本書』の本紀・地理志として構想されており(ちなみに列伝については、『丹後国風土記』に引用されていた「浦島子伝」などが列伝として採用されるはずだったと想定しています)、律令国家の要請に応じて編纂されたのに対し、『古事記』にはそのような要素が見出せないというところから、『古事記』の成立年代に疑問を抱きます。

結論を言えば、天武天皇の命により稗田阿礼が旧辞を誦習し、後に太安万侶がそれに従って『古事記』を著述し、和銅五年(712年)に献上したとする『古事記』序は9世紀に偽造されたものであり、実際は『古事記』は律令国家を志向しない立場によって遅くとも7世紀半ばから後半には成立していたのではないかとしています。

以前に読んだ神野志隆光『漢字テキストとしての古事記』は本書のように『古事記』から古層性を読み取るのに懐疑的である一方で、序文については後代の偽造とは見ておらず、本書とは対極的な立場にあると言えます。門外漢の私にはどちらの立場が妥当であるのか容易に判断しがたいものがありますが、三浦・神野志両氏に互いの主張の論評を聞いてみたいところであります。何か、恐ろしく話が噛み合わないんだろうなあという気がしますけど(^^;)

あと、『常陸国風土記』に見える「倭武天皇」と『古事記』・『日本書紀』のヤマトタケルを比較し、『古事記』編纂以前には歴代天皇の代数や継承の順番が確定されておらず、ヤマトタケルが(あるいは神功皇后も)天皇(大王)であったと見なされていた可能性があり、またヤマトタケルが悲劇的な死を遂げたという話は割と後になってからできたものではないかという指摘は興味深く読みました。著者の「伝承の成長が歴史を変える」、「古代においては、伝承こそが歴史を作る」という言葉はなかなか言い得て妙だと思います(^^;)
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最終回だよ大漢風(第50話)

2007年09月16日 | ドラマ『大漢風』
『大漢風』もいよいよ今日で最終回。しかし冒頭で劉邦が死ぬのは良いとして、盧綰の謀反・匈奴投降がセリフだけで済まされてしまうなんてあんまりです…… 

で、劉邦の葬儀の後、呂雉が一人玉座に座り込んで一人言をつぶやきます。「漢の史書には劉邦だけでなく私の名前も残さねばならぬ。……『呂雉』と。」 最終回にして名ゼリフが炸裂しましたねえ(^^;) 実際、『史記』には呂后本紀、『漢書』には高后紀が設けられているわけですが。

その後は趙王如意の死と戚姫を人彘にした次第、恵帝の死、そして呂雉の死がダイジェスト調で語られます。それにしても盧綰の投降はすっ飛ばしても人彘をきっちりやるのがこのドラマらしいですね(^^;)

淮南王劉長もすっかりスルーされてましたが、ラストの反呂后派の謀議で劉恒(後の文帝)の隣に座っていたのが、大人になった劉長だったのかもしれません。

【総括】

結局何だかんだと言って一年間毎回欠かさず見てしまいましたが、中盤あたりの項羽が虞姫に横恋慕した義帝を殺るの殺らないのとか言ってた頃が一番話が盛り上がってたような気がしますね。

このドラマの特徴は、何と言っても主な登場人物が異常にキャラ立ちしていた点と、歴史劇にドロドロの愛憎劇を持ち込んだ点にあります。キャラクターで特に印象に残ったのは、凄まじいほどビッチな女王様ぶりを発揮していた呂雉、そして見た目からしてバカ殿の二世皇帝と、本当に当時みんなからこんな風にウザがられてたんだろうなあと思わせる演技をしていた韓信です。

歴史劇に愛憎劇をミックスするというのは、今の中国では割と一般的な手法であるようです。最近の作品の中から例を挙げますと……

『辛追伝奇』(『大漢悲歌』)
『大漢風』と同じく漢初を舞台とした作品。馬王堆漢墓の被葬者の女性・辛追を主人公にしたというのが売りですが、なぜか彼女が劉邦・韓信と三角関係になってしまう模様。呂后の顔が怖いです……

『問君能有幾多愁』
南唐の李と趙匡胤が主人公ですが、やっぱりこの二人が一人の女性と三角関係になる模様。しかし呉越が趙光義を演じるなんてあり得ないよ!ちなみにタイトルは李の辞世の詞「虞美人」の一節から採ったもの。テレサ・テンがこの詞に曲を付けた「幾多愁」という歌を出してますが、このドラマの予告編を見たらきっちりその曲がBGMで流れてました……

『大漢風』の後番組がどうなるのか楽しみでありますが、何事も無かったように華流恋愛ドラマが始まったりしたらイヤだなあ……
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