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『古代中国の虚像と実像』その2

2009年12月22日 | 中国学書籍
落合淳思『古代中国の虚像と実像』(講談社現代新書、2009年10月)

本書第5章において著者は西周王の後の共和の時代を共伯和によって王位が簒奪された時代であるとしています。これに対して私は以前のエントリで「共伯和が王位を乗っ取ったかどうかはわからん。ぶっちゃけ、私は通説通りでも問題ないと思う。」とコメントしましたが、今回はそれについて。

著者が共伯和王位簒奪の根拠として挙げている史料は『古本竹書紀年』の「共伯和が王位を簒奪した」という一文と、金文の師キ簋(集成4311)です。まずは『古本竹書紀年』の記述の方か検討していきます。実はこの書において簒奪者とされているのは共伯和だけではありません。

まずは夏の時代に初代の禹が没した後、益という人物が禹の息子の啓の王位を乗っ取ったことになっています。『晋書』束皙伝で引用される『古本竹書紀年』では「益、啓の位を干し、啓、之を殺す」とあります。なお、『史記』夏本紀では禹が死ぬ前に臣下の益という人物に禅譲し、次の天子としたが、諸侯たちが心服せずに禹の子の啓を慕ったため、益は天子の位を啓に譲ったとしています。

また殷王朝建国の功臣である伊尹もこの書において簒奪者とされています。『史記』殷本紀では湯王の孫である太甲が暴虐であったのでこれを桐宮という所に放逐し、その間伊尹が政治を代行。そして3年後に太甲が心を入れ替えたのを見ると宮廷に迎え入れて政権を返上したとしています。

ところがこの話が『古本竹書紀年』にかかると「仲壬崩ずるに、伊尹、大甲を桐に放つ、乃ち自立するなり。伊尹、位に即き、大甲を放つこと七年、大甲潜かに桐自り出で、伊尹を殺す」(『春秋経伝集解後序』などの引用)、つまり、王の仲壬が亡くなると伊尹は大甲を桐に追放して自ら王位を簒奪。そして7年後に密かに追放先から脱出した大甲に殺害されたという話に化けているのです。

実のところ『古本竹書紀年』という書自体は現存せず、その逸文が他の書に引用されているのみで、また西周成王の時代の記述など欠落している部分も散見されるのですが、仮に成王の時代の部分が残っていたとしたら、成王の摂政とされる周公旦も簒奪者に仕立て上げられていたことは想像に難くありません。

つまり『古本竹書紀年』という書は臣下が政権を握るとこれを簒奪と解釈する傾向があるわけです。となると、共伯和が簒奪したという記述も当然歴史的な事実がどうか疑われますし、こういう史料としての性質を理解せずにその内容を鵜呑みにするような著者の姿勢には疑問を感じざるを得ません。

最近中国の清華大学が戦国時代の竹簡を購入し、その中には「西周から戦国初めまでの編年体史書」も含まれているということです。(詳しくはこちらを参照。)これに果たして共伯和のことが記載されているのか、そして共伯和がどう評価されているのか楽しみです。またこれを『古本竹書紀年』と比較することで、『竹書紀年』という史料の性質もより明確となるかもしれません。

長くなったので金文についてはまた次回。
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