博客 金烏工房

中国史に関する書籍・映画・テレビ番組の感想などをつれづれに語るブログです。

『後宮甄嬛伝』その10

2012年08月30日 | 中国歴史ドラマ
『後宮甄嬛伝』第53~58話まで見ました。

甄嬛は果郡王の死の真相究明と、罪人となった家族の名誉回復、そしてお腹の子の養育のため、宮廷に戻ることを画策。えっと、それってお腹の子を雍正帝の子ということにしてしまうということでしょうか?(´・ω・`) で、甄嬛の侍女頭の槿汐が同郷の縁を利用して雍正帝の太監の蘇培盛と接触し、心中甄嬛を懐かしがっていた雍正帝を甘露寺に招くことに成功します。

そして雍正帝との再会と同衾を経て、雍正帝の子を宿したと報告し、雍正帝の方も甄嬛を呼び戻すことを決意。本当にやりやがった…… 当然皇后は何とか甄嬛の帰還を阻もうとするわけですが、これと並行して自分の擁する三阿哥弘時の皇位継承のライバル四阿哥弘暦(後の乾隆帝)の毒殺を謀るも失敗し、四阿哥の将来を憂慮した皇太后が、甄嬛を帰還させて彼の後ろ盾とすることを承諾。

甄嬛は莞嬪改め熹妃に封じられ、かつ満州族の大姓である鈕祜禄氏に改姓し、四阿哥の生母として宮廷に戻ることになります。そう、養母ではなく生母です。あまりに想像の斜め上をいく展開に、ドラマの中の登場人物も驚いております。蘇培盛「 えっと、生母と言われましても娘娘は22歳で四阿哥と7歳しか違いませんが……」 雍正帝「じゃあ32歳だったということにすりゃあいいだろ!」イヤ、ちょっと待て、色々とおかしいw こういう于正ドラマ並みのアクロバティックな展開を、ネタではなくさも当然であるかのように演出できるのがこのドラマの監督の強みなのでしょうか(^^;)

そしてタイミング悪く甄嬛の再入内が決定した後に、「ちーっす!ジュンガル部の罠に掛かってもう少しで死ぬところだったけど、何とか生きて帰ってきましたYo!」と戻って来る果郡王。やっぱりこういうオチになりましたか…… 再入内の話を聞かされた上、自身が雍正帝から甄嬛を甘露寺に迎えに行く使者に任じられて涙目状態ですが、ここはm9(^Д^)とツッコまざるを得ないw

更に甘露寺を出る際に今まで散々嫌がらせをしてきた静白師太に「死罪は見逃してやるが、活罪から逃れられると思うなよ!」と啖呵を切り、副住持の職を取り上げたうえ、棒打ちの刑に処す甄嬛。ここらへん日本のドラマだといじめた相手を許してなあなあで済ますところですが、さすが大陸のドラマはきっちりケリを着けてくれます。

宮廷に戻った後も、皇后の子分の祺嬪からこまい嫌がらせをされたり、敬妃に養育を託していた実の娘の朧月公主を引き取ろうとしたら、肝心の公主から「ぢがう゛も゛ん!あたしのお母さまはあんたなんかじゃないもん!」と大泣きされたりしておりますが……
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『足利義満』

2012年08月29日 | 日本史書籍
小川剛生『足利義満 公武に君臨した室町将軍』(中公新書、2012年8月)

足利義満の生涯や、義満にまつわるあれやこれやをまとめた本ですが、内容が多岐に渡るので、例によってトピック別に気になった点をまとめていきます。

○二条良基について
二条良基は当時の北朝宮廷の有力者で、義満と深い交流のあった人物ですが、彼には一年間の日記という体裁で自らの願望や理想とする朝儀を書き連ねた『思ひのままの日記』という著作があったとのこと。……えっなにそれこわいw 本書の著者も「ひたすら妄想を語られるような寒々しさも覚える」とコメントしてますが(^^;)

そして良基がこの『思ひのままの日記』を書いたのが、興福寺による嗷訴の調停に失敗して、興福寺より藤原氏からの放氏処分を言い渡されていた時期。藤原氏の氏寺である興福寺が、五摂家の当主で藤原氏の氏の長者までつとめた良基を藤原氏から追い出したのは、著者によればイエズス会員がローマ教皇を破門すること並みにあり得ないことということですが……

そして義満が右大将に就任する際の拝賀の指導役として洞院公定が内定していたのに、「そこはワシやろ」と公定を押しのけて指導役の座を奪う良基。このあたりの話を読んでると、実は人格的に相当アレな人だったのではないかという印象を受けてしまいます。言動を見てると「室町殿はわしが育てた」とか言い出しかねないものが(^^;)

○日本人と『韻鏡』

『韻鏡』というのは漢字の音韻を図示した漢籍ですが、当時この書で年号や人名の反切を求めて吉凶を判断したという話がなかなか狂ってます……

三条西公時「次の年号は慶長で如何か?」
洞院公定「慶長の反切はキョウ、すなわち羌となる。この年号を採用すると、我が国が羌のような異民族に侵略されることになるのだよっ!」
一同「な、なんだってーーー!!」


みたいな会話がなされたのでしょうか(^^;)

そして歴代の足利将軍が改名しまくったのも、名前の反切で導き出される字の吉凶を異様に気にしたからだとか。これはある意味現代の姓名判断より悪質ではw

○皇位簒奪計画説について

本書ではいわゆる義満の皇位簒奪計画説を否定しています。義満が生前に治天の君のように振る舞い、死後に太上天皇の号を贈られたことはよく知られていますが(ただし息子の義持が尊号を辞退)、著者によると、「天皇は子であっても君主、上皇は父であっても臣下である。太上天皇の尊号とは天皇が臣下に贈る身位」ということですが、そーいうもんですか……

義満が太上天皇の尊号宣下にこだわったのは、明への国書に用いる称号として、准三后や当時から国内で批判が多かった日本国王ではなく太上天皇の号を使いたかったからとのことですが、それも事情を知らない中国人が目にしたら「あんたは天皇の父親か何かですか?」ということになるのではないのかと疑問に思うところです。まあ、准三后も中国には存在しない称号ということなので、「あんたは女性ですか?」と問われかねないと思いますが……

本書では義満の死後、五山僧の記録でしばしば「鹿苑院太上天皇」の表記が用いられ、鹿苑寺蔵の義満木像の銘に「鹿苑天皇尊像」とあるのは、禅宗の庇護者であった義満に対するリップサービスみたいなもんで、社会的に通用したものではないと評価しています。しかしそういう事情を割り引いても、これは充分異様なことではないかと思うのですが……

そう言えば義満が明国から日本国王の冊封を受けたことについて当時から批判があったとのことですが、それより以前に南朝の懐良親王が同じように冊封を受けたことはどう見られてたんだろうなあと疑問に思いました。
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『後宮甄嬛伝』その9

2012年08月23日 | 中国歴史ドラマ
『後宮甄嬛伝』第47~52話まで見ました。

甘露寺の尼僧たちのいじめにも何とか慣れ、近所の道観に住む果郡王の母の舒太妃と意気投合した甄嬛ですが、肺病を理由に冬の雪の中甘露寺を追い出されてしまいます。そして侍女たちと途方に暮れているところを果郡王に救出され、清涼台にある果郡王の別荘で養生することに。

果郡王の気持ちを知りながらも敢えて冷たい態度で接していた甄嬛ですが、外の雪で自分の体を冷やしきって甄嬛の体を抱いて熱を冷まそうとする荒行に感動し、遂に彼の愛を受け入れます。母親の舒太妃もそんな2人の愛を祝福……って、ちょっと待って下さい。何かおかしいですよ!?宮廷を出て尼僧になったからと言って、雍正帝以外の男と自由恋愛していいというお墨付きを貰ったわけじゃないんですよね?(´・ω・`)

そんな雍正帝は年羹堯に続いてやはり権臣の隆科多を粛清したり、円明園の馬飼いの葉瀾衣に惚れて入宮させたりしてますが、安陵容と寝ていたところ急に高熱を発して人事不省に陥ります。うわごとで「嬛嬛…」と甄嬛のあだ名を呼び続けているところを見ると、やはり彼女のことが忘れられないのでしょう。でもその嬛嬛ちゃんはあなたの目の前で容態を見守っている果郡王と絶賛浮気中です(´;ω;`)

一方、甄嬛は果郡王の子を妊娠して喜びに包まれますが、その果郡王が雍正帝の命で雲南・チベット方面を視察中に乗っていた船が転覆し、溺れ死んだという悲報が…… こういう展開は予想してませんでした。まあ、あとで実は果郡王が生きてたというオチになるんでしょうけど(^^;)

紫禁城でも、入宮したものの態度があまりにもデカい寧貴人(葉瀾衣)に、皇后の意を承けた斉妃がいけない薬を混入した紅棗湯を飲ませて子供を産めない体にしてしまうものの、事が露見すると皇后の方がさっさと斉妃の単独犯ということにしてしまって彼女を自害に追い込み、彼女の産んだ皇位継承最有力候補の三阿哥をほとんど自分の子供替わりにしてしまいます。きたないなさすがw おまけに昔、自分の姉である純元皇后の死にも関与していたことが仄めかされ、話がドンドンきな臭くなってきたところで次回へ。
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『頼朝の武士団』

2012年08月22日 | 日本史書籍
細川重男『頼朝の武士団 将軍・御家人たちと本拠地・鎌倉』(洋泉社歴史新書y、2012年8月)

『北条氏と鎌倉幕府』・『鎌倉幕府の滅亡』の細川重男氏の新著。今回は両作で触れられていなかった鎌倉幕府の草創期について論じています。そして『北条氏と鎌倉幕府』ではネタを重視、『鎌倉幕府の滅亡』では論考を重視していましたが、今回は『北条氏と鎌倉幕府』と同じくネタに走っています。つまり鎌倉武士=DQNということで全体を突き通しているわけですね。

本書では鎌倉の頼朝邸すなわち幕府が事実上御家人たちの溜まり場となっており、日夜宴会や双六で盛り上がっていたとありますが、要するに私が学生の時分に入り浸った××君ちみたいな空間ということですね。わかりますw このあたりの話を読んでると、鎌倉武士の生活がとても楽しそうに見えてきて困ります(^^;)

とは言っても殺しが日常生活の延長線上にあり、北条一門の重鎮北条重時が息子の長時に家訓として「時トシテ何ニ腹立事アリトモ、人ヲ殺害スベカラズ」(腹が立ったぐらいで人を殺しちゃダメよ(はあと))と言い残すような時代ですから、その溜まり場で御家人の粛清劇が繰り広げられたり、酒の場でのちょっとしたいさかいが凄惨な殺し合いに発展したりするわけですけどね…… このあたり、著者の言う「残虐とほのぼのが共存する時代」という表現がとてもしっくりきます。

以前元木泰雄の『河内源氏』を読んだ時に、「嫡流だから偉いのではなく、偉いから嫡流なのだ」という感想を抱いたものですが、本書によると、そもそも当時源氏の嫡流なんて存在しなかったとのこと。まあ、頼朝が偉かったから後の時代にその系統が嫡流と見なされるようになったと考えれば、同じことなのかもしれませんけど。
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『おおかみこどもの雨と雪』

2012年08月19日 | 映画
ブログなどで感想を見てると、色々不穏な要素に満ちているらしいということで、細田守監督の『おおかみこどもの雨と雪』を見てきました。

東京で一人暮らしをしていた女子大生の花は、もぐりで大学の講義を受けていた狼男と出会って同棲生活を開始し、雪と雨の二人の「おおかみこども」に恵まれますが、狼男の方が花や子供たちを残して急死。狼男と人間とのハーフをどう育てたものか戸惑い、子供たちの正体が露見するのを恐れた花は、意を決して人気の少ない田舎に引っ越すことにしますが……

「花と狼男との恋愛話はメインじゃないんで!」ということで、二人の出会いから田舎に引っ越すまでが90年代の香港映画並みのスピード展開でワロタw (褒めてます) しかし狼男の遺体がポリ袋に放り込まれてゴミ収集車に回収されていくシーンは軽くトラウマになりそうでしたが……

で、人目に触れにくい一軒家で農業をやりつつ三人で暮らしていくと決めたものの、畑仕事のやり方がわからず、かと言って雪と雨のこともあるのであんまり人には頼りたくないということで、移動図書館で借りた本を頼りに野良仕事に励む花。こちらのブログ(『おおかみこどもの雨と雪』におけるヒロインの怖さ:愛書婦人会)を参照しつつこの場面に注目すると、いわゆる「意識の高い」お母さんが自然食品とかロハス生活にハマっていくメカニズムが何となく見えくるような気がします。

そして物語の後半では、雪と雨の姉弟が自然界の中で狼として生きるか、それとも狼に変身できるという秘密を抱えつつ人間として生きていくのかという決断を迫られていくわけですが、弟の雪が自分の見込んだ「先生」に弟子入りするという武侠的展開(どういう事情で何に弟子入りするかは見てのお楽しみ)も見所のひとつです。

この作品、例えば舞台がアメリカであれば「狼に変身できるのも個性のひとつだよ」という展開になったと思われ、欧米に限らずタイやインドなどが舞台でもまた違った展開になったはずですが、今の日本を舞台とする限り、残念ながら「狼に変身できることを隠して生きる」という本作の展開がごく自然なものに感じられます。

いろんな方面で物議を醸しそうな不穏な要素に満ちた本作ですが、心のモヤモヤを喚起するという意味では同じ監督の作品の『サマーウォーズ』よりずっといい作品だと思いましたよ?

しかし本作の最大の謎は、狼男がどうして大学のギリシア哲学だか古代ギリシア史だかの講義にもぐりこんでいたのかですが、労働に励みつつ何かのはずみで学問の面白さに目覚め、独学の手段を探っていたのだと考えると何だか泣けてきました(´;ω;`) 大学って一般に開かれているように見えて、本作で触れられていたように図書館の利用制限とか、意外と部外者に冷たい面があるんですよね……
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『歌舞伎と浄瑠璃』

2012年08月18日 | 日本史書籍
田口章子『歌舞伎と浄瑠璃』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー、2004年)

歌舞伎と、今話題の人形浄瑠璃(文楽)がお互いにどう影響しあって発展してきたかについてうまくまとめた好著です。ただ、本書で論じられている歌舞伎と浄瑠璃の「男性原理」「女性原理」については、正直なところ何を言ってるのいまひとつよく分からないのですが、スルーしちゃってかまわないのでしょうか……

本書に見る歌舞伎の歴史。

「遊女歌舞伎が大人気だお!」
→当局「いかがわしい!こんなのほとんどストリップと変わらないではないか!けしからん、禁止!」
→「じゃあ男でやるわ。若衆歌舞伎っ!」
→当局「男優に変えてもやってることは同じではないか!禁止!」
→「じゃあ芸術っぽく見えればいいんだねっ!人形浄瑠璃から台本をパクってストーリー性を持たせるよっ☆」
→当局「……」

まあ、このあとも松平定信やら水野忠邦やらにあれこれ難癖をつけられて取り締まられるわけですが……

そして浄瑠璃で人気の題材となった心中についても、心中が社会現象となっていることを苦々しく思った八代将軍吉宗は、それなりに美しい響きがある(らしい)「心中」という呼び方を嫌い、法律用語の「相対死」という呼び方を使用させることに。何かDQNネームと呼ぶかキラキラネームと呼ぶかみたいな不毛な議論ですが(^^;) そして心中物というジャンル自体も禁止の対象となってしまいます。

本書を読んでると、文化というのは流行ったら流行ったで、今の文楽みたいに流行らなかったら流行らなかったで、どっちにしろ当局にあれこれ難癖を付けられるものなのかとしみじみ……
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『後宮甄嬛伝』その8

2012年08月16日 | 中国歴史ドラマ
『後宮甄嬛伝』第41~46話まで見ました。

年羹堯追い落としの功臣鄂敏の娘の祺貴人が入宮しますが、甄嬛や皇后に媚を売ったかと思えば、落ち目の華妃と悶着を起こしたりと、早速食わせ者ぶりを発揮してます。その華妃ですが、配下の宦官粛喜に甄嬛を付け狙わせていたところ、甄嬛は自分で自分の宮殿に火を付けて粛喜を放火の実行犯、華妃をその示唆犯に仕立て上げ、華妃を死罪に追い込むことに成功。これぞまさにマッチポンプ!きたないなさすがw

その功績(?)により甄嬛は妃に、安陵容と曹貴人はそれぞれ嬪へと昇格することになりますが、元々華妃の腹心だった曹貴人の裏切りっぷりが、彼女の生んだ温宜公主の教育に良くないということで、雍正帝の命により密かに毒殺されてしまいます。今回はきたないなさすがえっなにそれこわいな展開がいっぺんにやって来ましたね……

一方、鄂敏は甄嬛の父の甄遠道が年羹堯の一味の詩集を所持していたと誣告して失脚に追い込み、甄嬛の方も皇后の陰謀により、妃への冊封式に亡き純元皇后の礼服を着て出席してしまい、雍正帝の逆鱗に触れて妃への冊封を取り消し→監禁というコンボを食らってしまいます。そして自分が雍正帝にとって純元皇后の身代わりにすぎなかったことを思い知らされ、絶望する甄嬛……

そこで唐突に甄嬛の妊娠が発覚。このドラマにおいて妊娠は地獄展開への伏線にすぎないわけですが、ここでもやはり皇后の手先となった安陵容が甄嬛の流産を謀って暗躍します。甄嬛は前回の流産の原因が華妃のいびりではなく安陵容がくれた傷薬であったこと、父親の甄遠道が鄂敏・祺貴人父娘の策謀により投獄されたことなど、知りたくもない事実を知らされつつも何とかショックに耐え抜き、女児を出産。

しかし「お前を妃にしてやるから、朕と以前のような関係に戻ろう」という雍正帝の申し出を、「陛下は本当に以前のような関係に戻れるとお思いですか?」と拒絶。そして一貫して自分に好意的な敬妃に赤子の朧月公主を託し、紫禁城を出て仏門に入ることを決意。

……というわけで、前半部のボスのサウザーもとい華妃が退場して後半部に入った途端にこれですよ!このドラマにおけるラオウはやはり皇后でありましたか……
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『黄金大劫案』

2012年08月14日 | 映画
『黄金大劫案』

舞台は満州国の首都新京。チンピラの「小東北」は、ひょんなことから満映の大女優「芳蝶」を頭目とする抗日組織「救国会」に加わり、関東軍の金塊を強奪することになるが……ということで、作品自体はよくある(?)抗日コメディですが、こちらのブログ↓によると、新京の風景をCGで再現しているということで見てみることに。

「黄金大劫案」:『マダム・チャンの日記』

新京というのは今の長春のことですね。手持ちの資料や現在の長春の風景から察するに、必ずしも当時の風景を忠実に再現したというわけでもなさそうですが、それでも当時の雰囲気はかなりよく出ているんじゃないかと思いました。











現在の長春に残されている満州国時代の建築物については、当ブログの以下の記事を参照のこと。

「旧満州国建築」
「旧満州国建築その2」
「旧満州国建築その3」
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『後宮甄嬛伝』その7

2012年08月08日 | 中国歴史ドラマ
『後宮甄嬛伝』第35~40話まで見ました。

雍正帝の寵愛を取り戻した甄嬛は、不遇の時代に自分をいじめた富察貴人を呂后の「人彘」の話で(要するに言葉攻めで)ノイローゼに追い込み、華妃の軍師役だった曹貴人を味方に取り込みます。富察貴人にはその程度でノイローゼになってちゃ後宮生活なんてやっていけないぞっ☆~(ゝ。∂)と言いたくなりますが……

そして十阿哥敦親王と結託するなど不穏な動きを見せる年羮堯に対して警戒の念を募らせる雍正帝ですが、甄嬛は敢えて自分の流産の一件以来召し上げられていた華妃の待遇を元に戻し、年氏兄妹を油断させるという作戦を献策。そして甄嬛の父親甄遠道が雍正帝の意を承け、年羮堯一派の弾劾に動き出します。

一方、不穏な空気を察した華妃は、自分の侍女の頌芝が雍正帝に気に入られたのを見て侍女から妃嬪への昇格を申し出ます。答応の位を与えられた頌芝は雍正帝との夜の生活で華妃のフォローに回ることに。

しかし雍正帝もさるもの。そんな華妃の意図を察し、円明園の宴席で頌芝と言い争いになった甄嬛をわざと罪に問うて蓬莱州に流罪にし、華妃を安心させます。そしてその隙に年羮堯と結ぶ敦親王を、八阿哥允禩を擁立して大逆を謀ったということで一網打尽にし、年羮堯もその一味として連座させ、降格の後に職権を取り上げます。

そして甄嬛は紫禁城に呼び戻され、完全に甄嬛の側に寝返った曹貴人が、温宜公主毒殺の濡れ衣を甄嬛に着せようとした一件や沈眉荘の想像妊娠の件、淳常在殺害の件など、これまでの旧悪を洗いざらい暴露。権勢が弱まると途端に掌を返すのが後宮クオリティw これを承けて雍正帝はいよいよ華妃を答応に降格させ、更に職権取り上げ後も態度の改まらない年羮堯には自害を申しつけます。ここに至っても人前では傲岸な態度を崩さない華妃はさすがであるとしか……

しかし華妃のせいで雍正帝の寵愛を失い、人生観まで変わってしまった沈眉荘は、降格の知らせを聞いても「えーっ、皇上から自害を命じられたり冷宮に放り込まれたりするんじゃないの!?それじゃあダメじゃん!」と不満顔ですが、この人もやっとこさ後宮の論理に染まってきたなと(^^;)
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『後宮甄嬛伝』その6

2012年08月02日 | 中国歴史ドラマ
『後宮甄嬛伝』第29~34話まで見ました。

ここのところ日照り続きということで、天壇で雨乞いの祈祷を行うため、雍正帝と皇后は後宮の管理を華妃に託して紫禁城を留守にします。しかし華妃はここぞとばかりに妊婦の甄嬛をいびりたおし、体調のすぐれない彼女をムリヤリ呼び出して炎天下で正座させたりと無茶をさせたところ、あえなく流産となり、華妃も責任を問われる事態に。

ここで華妃が「怎么会这样?」(どうしてこんなことに?)などとつぶやいておりますが、あれだけのことをしでかしておいて今更これは無いなと(´・ω・`) まあ、いじめっ子の心理を表したセリフとして見ればなかなか秀逸なのかもしれませんが。しかし兄の年羮堯を恐れ、貴妃から妃に降格させる以外にこれといった罰を華妃に下せない雍正帝に失望を感じ始める甄嬛。次第に雍正帝と甄嬛の感情がすれ違っていきます。

ここで安定期に差し掛かっていた甄嬛がちょっとの間正座していただけで流産するのはおかしい、原因は華妃が常用していたお香に流産や不妊を促す麝香が密かに混ぜられていたためであり、これは華妃の妊娠を望まない雍正帝による措置ではないかとか、あるいはそれもおかしい、原因は他にあるのではないかといった憶測が繰り広げられますが、果たして真相はいかに?

さて、流産のショックから立ち直れない甄嬛は、雍正帝の寵愛が衰えたということで、ここぞとばかりに繰り広げられる斉妃と富察貴人のいびりにも黙って堪え忍んだりと、ややメンヘラっぽい言動がめだつようになります。そしてそんな彼女を尻目に、皇后の後ろ盾によって雍正帝の寵愛をゲットし、常在から貴人へと昇格する安陵容。

そんな甄嬛を見かねた沈眉荘は、冷宮に送られたかつての寵姫たちの末路を見せつけるといったショック療法を施します。その甲斐あってか甄嬛は再び後宮生活へのやる気を取り戻し、雍正帝の気持ちを取り戻すことに成功しますが……
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