博客 金烏工房

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『古代中国の虚像と実像』その3

2009年12月23日 | 中国学書籍
前回の続きです。金文については師キ簋(殷周金文集成(以下、集成と略称)4311)を取り上げ、この銘で伯龢父(すなわち共伯和)が配下の師キに対して職務を命じているが、その形式が王の行う「冊命」という儀礼を模していること、またこの銘の「王の元年」という紀年が共伯和が王位に即いた元年を指すとしています。

しかし実のところ貴族が冊命儀礼の形式を模して配下に職務を命じた銘文はこれが唯一というわけでもなく、他にも存在するのです。例えば西周中期のものとされる卯簋蓋(集成4327)では

「唯れ王の十又一月、既生霸丁亥、榮季入りて卯を右(たす)け、中廷に立つ。榮伯呼びて卯に命じて曰はく、「乃(なんじ)の先祖考に在りては榮公の室を死司(おさ)めり。昔乃の祖も亦た既に命ぜられ、乃の父も■人を死司めり。……今余唯れ汝に命じて■宮・■人を死司めしむ、汝敢へて善からざる毋かれ。汝に瓚四・璋・■・宗彝一肆・寳を賜ふ。汝に馬十匹・牛十を賜ふ。乍に一田を賜ひ、■に一田を賜ひ、隊に一田を賜ひ、載に一田を賜ふ。……」

とあり、やはり冊命儀礼の形式を模して榮伯が配下の卯という人物に職務を命じています。従って師キ簋を共伯和が王位に即いたことを示す史料として用いるのはかなり無理があると言わざるを得ません。なお、師キ簋の紀年については共和元年ということで一応暦の計算が合うようですが、もしそうであれば「王の元年」の「王」とはおそらく宣王を指しているのでしょう。

前回・今回の考察の結論として、共伯和が王位を簒奪したというのは根拠が薄弱で、従来のように共伯和が暴君の王を放逐した後、幼少の宣王を擁立して摂政のような地位に即いたと理解しても特に何の問題もないということになります。

なお、金文にはこの他に共伯和の死を記したと考えられるものが存在します。それが師リ簋(集成4324~25)で、その冒頭には「師龢父[乍殳]す、リ淑紱し、恐(つつ)しみて王に告ぐ。唯れ十又一年九月、初吉丁亥……」とあります。この銘では共伯和は師龢父と呼ばれています。

「師龢父[乍殳]す」とは「師龢父殂す」、すなわち師龢父が亡くなったことを意味し、この文はリという人物が王に共伯和の死を報告したという内容となります。文中の「十又一年九月、初吉丁亥」という紀年は共和十一年でも宣王十一年でも暦の計算は合うようですが、取り敢えずこの銘によれば共伯和は宣王側によって誅殺されず、畳の上で死んだということになるようです。

また「恐(つつ)しみて王に告ぐ」という文からは共伯和への一定の尊重が読み取ることができ、あるいは共伯和から宣王への政権交代は平和裏に進められたのではないかと思わせます。(それは単なるあんたの印象ではないかと言われるかもしれませんが……)
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