Wilhelm-Wilhelm Mk2

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フルトヴェングラーとギーゼキング

2004-12-16 | Weblog
また例によってごそごそと箱をあけてCDを物色。そして今聴いているのは、フルトヴェングラーとギーゼキングによるシューマンの協奏曲だ。これはいわゆるDGから発売されたベルリンライブ1942-1944といわれる戦時中の録音で、ドイツ敗戦時にソ連が応酬してしまったテープからのコピーである。(この音源からは様々な版が発売されており、結局どの市販品が一番ましなのかは私は知らない)演奏はフルヴェンらしく実にロマンティックなものだ。私の宝物であるバックハウスのものとは正反対の演奏であるが、何度も繰り返すがフルヴェンのロマン的というのは、ただのテンポの揺らしだけでなく、音楽作品のもつ自然な流れを際立たせるものであり、この演奏においてもそれが見事に結実している。ほんと、フルヴェンの演奏で「はずれ」にあたったことがない。この説得力なんだよな、うん。
さて、ギーゼキングだがこの演奏では異様にミスタッチが多い。ギーゼキングといえば天才肌のテクニシャンなのだがこの時は調子が悪かったのだろうか?フルヴェンと彼の間には友情関係があったのかどうかはしらないが、演奏を聴く限りはなかなかシンクロしている。音質が悪いので細部はわからないが、ギーゼキング独特の温かい音と粒の揃った音色はしっかり聴こえる。私は彼のドビュッシーの録音がお気に入りなのだが、同時代のバックハウスともケンプとも全く違う系統なドイツ奏者だと思う。うまく言えないが、「万能型」ではあるが、決して「何でもタイプ」ではない。作曲家ごとにきちんと表現を切り替えれる希有な奏者と思っている。批評本では、彼を「新即物主義」とし、「神業のテクニックをもつが無機的で冷たい」と評している。しかし、私は全くそうは思わない。彼のモーツァルトなぞは非常に温度があって愛らしいし、この演奏もフルヴェンの表現にきちんと噛み合わせてかなり大時代的ロマンチシズムを漂わせて演奏している。
ギーゼキング自身はかなり変わった人だったようで、蝶の収集が趣味で演奏旅行にさえ虫取り網を携えていたようだ。また、彼は初見の天才で、新曲なども譜面を眺めるだけで最初の段階ですらすらと弾けてしまったようだ。バックハウスやケンプが「求道者」「哲学者」のようなおもむきが会ったのに対し、ギーゼキングはその巨漢と恐るべき才能からか、「怪物」扱いされているような気がしないでもない。