Wilhelm-Wilhelm Mk2

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メンゲルベルク(2)

2008-09-05 | Weblog
 ウィレム・メンゲルベルク(1871-1951):オランダの指揮者。1895-1945に渡り50年間、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の監督をつとめた。初めはピアニストとしてデビューした(リストの協奏曲を弾いたらしい)。

メンゲルベルクのマタイ受難曲(1939)。マタイは生で一度聴いただけで、手持ちのCDは、リヒターとフルヴェンのものだけ。名盤とされるそれらさえも熱心に聞いたことがないので、メンゲルベルクの演奏がマタイとしてどうなのかはよくわからない。ただ、たとえドイツ語がわからなくても、聖書のことをよく知らなくても、この演奏の規格外なドラマチックさに誰もが圧倒されるのは間違いない。メンゲルベルクのドラマチックさは、フルトヴェングラーのドラマチックさとは方向性が違う。フルトヴェングラーは音楽を生き物のように扱い、演奏という連続性のなかで熱量がどんどん積み上がって行く「自家発電」という感じであるが、メンゲルベルクの場合は、大伽藍、それも常人の発想を遙かに超えた規模の大伽藍を、設計図通りにがっちり積み上げていく感がある。
 ピリオド演奏が主流の現在、メンゲルベルクの演奏(フルヴェンの演奏も含め!)は、その筋の演奏家達に酷くこき下ろされている「誤った解釈である」と。しかし、私個人としては、メンゲルベルクの演奏は決して決して間違っていないと思う。むしろ正しいと思う。マタイのような宗教音楽は教会で演奏されることが前提にされている。教会の高い天井から生じる長く緩い残響は、荘厳かつ厳粛にして神秘的な雰囲気を演出してみせる。メンゲルベルクはそれをコンセルトヘボウという近代的なコンサートホールで再現してみせたのだ。モダン楽器、ヴィブラート、ポルタメント奏法・・・それらがバッハの時代には存在しなかったからといって、バッハがこの演奏を否定すると言い切れるだろうか?メンゲルベルクは、同時代の作曲家であるマーラーやリヒャルト・シュトラウスから絶大な信頼を得ていた。信頼の証として、マーラーは5番と8番交響曲、リヒャルトは「英雄の生涯」という傑作を彼に献呈したほどである。つまり、譜面から作曲家の意図を読み取る能力について、メンゲルベルクが劣っていたとはとても考えられない。それに、いくらメンゲルベルクの演奏が時代考証を無視した主観的な演奏だと非難したところで、現在の我々よりメンゲルベルクは100年もバッハの時代に近いのだ。彼が生まれたとき(1871)、ワーグナーは絶頂期であり、成人したときでさえブラームスはまだ存命していたのである。そんな彼がドイツ音楽の権化たるバッハの「精神」の理解に不足していたとはとても思えない。
 最近のクラシック業界はまるで考古学である。博物館や図書館で勉強しないと、作曲家の意図に近づけないという考えは、いわゆる頭でっかちの奢りであるように思う。ピリオド奏法で名をあげている演奏家なんてものは、その奏法だけが売りであって、演奏内容は殆どが凡庸かそれ以下である。なぜ、メンゲルベルクの70年前の演奏がいまだに名演として人々の心を捉えて離さないのか、そして自分たちの演奏が50年後の人々にも(もちろん現在の人々にも)愛されるのか?そのあたりを現代の指揮者は真剣に考えた方が良いと思う。