「全ては須く終わる」と繰り返す『夕凪』の中にあって、展開上フックになっているのが『せいや』のパートだ。あの場面があるかないかで楽曲の奥行きが随分と変わる。
「プロフェッショナル・仕事の流儀」の放送を観ると、仮歌のつもりで録音したものがそのまま使われている模様。何て歌詞をつけたものかと思案しているヒカルに、沖田ディレクターだったかな、誰かがそのままでいいと助言する場面があった。
つまり『せいや』に意味はない。最初に聴いた時私は歌詞のテーマもあって「三途の川の渡守が櫂を漕ぐ時に発する掛け声かな?」とか「或いは故人を偲ぶ鎮魂歌や霊歌の類か」などと考えを巡らせていたのだが、あっさりと梯子を外されてしまった。
繰り返すが、もしこの『せいや』のパートが無ければこの曲はもう随分と「ただひたすら同じ主張を繰り返すだけに終始する歌」にしかならなかった。寧ろ、この言葉にならない場面の為にこの歌が生み出されたとすら思っていたので、ヒカルが梯子を掛ける気すらなかったと知ってどう受け止めたものかと悩む羽目になってしまった。
なので、ここは個々が好き好きに解釈していい場面なんだと納得しておこうか。この『夕凪』の後、『嫉妬されるべき人生』では歌詞がかなり具体的で、想像力は掻き立てられるものの自由に思いを巡らすという風になれる場面は皆無となっているので、『初恋』というアルバム全体としてはここが最後の「聴き手が自由に解釈できる場面」なんだということもできる。そう捉えてしまえれば、『せいや』に意味を付さなかったヒカルの優しさに乾杯することもできるだろう。
実際、ここで喚起される各々の「死」のイメージはおいそれと共有できるものではないかもしれない。その上で何か互いに相通ずるものが見出せれば、『夕凪』という歌のありようとしては望ましいだろう。『Everybody feels the same』と何度も歌いながら最後の最後に『誰も居ない世界へ私を連れて行って』と綴った『虹色バス』を、思い出したよ。
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自分には「ぜいやー」にも聞こえてました
theirか、thereかなーとぼんやり。。
でもここはある意味で一番自由に思い巡らせていいパートなんですね
濁音であることに意味があるように思います。
不安を煽られるような濁音。
以前そういう発言がありませんでした?
ゴダイゴとか。
一定ではなく微妙に長さが変化するところとか
わたしもこう思ってました。
「せいや〜」の最初のコーラスは、藤圭子さんの声と似ているな〜と思いながら聞いていたら、だんだん甘めの宇多田さんの声で多重になってくるあたりが
一人で櫂を漕ぐ藤圭子さんの姿、
それに気づいて手伝ってあげる宇多田さん
二人で船を漕ぎ、最後は向こう岸まで届けてあげる
・・・そして波打ち際に残された宇多田さん
という絵を想像をしてしまっていました。
イメージと音と構成と、とても大好きな作品です。
確かに最初のコーラスは嗄声で圭子さんを彷彿とさせますが、
そこに物語を想像するところまではいかなかったな…。
波打ち際に残されるのがまた…。
また書いてね。