無意識日記
宇多田光 word:i_
 



モーツァルトは最高の作曲家だが退屈だ、とは当欄でも何度か書いている気がするが、なぜそう感じるかがよくわからなかった。他の作曲家と比較すればその洗練された美しさは群を抜いているし、彼の音楽を賞賛する批評を見聞きしてもいちいち「その通りだ」と頷かされる。確かに彼は音楽で神の存在を感じさせる天才である。

昨夜N響アワーで41番(しょこたんの大好きな木星~ジュピターね)を聴きながら、ああそれは彼の作品に「文学性」が殆ど感じられないせいではないか、と気がついた。気がついたというより、退屈さを簡潔に表現するよいフレーズを思い付いた、というべきか。「文学性の欠如」。なるほど(私の)腑に落ちる。

彼の作品は圧倒的な確信と共に始まり、これでもかという位美しくキマって終わるので、私は何だか全部を聴く気が起きない。楽曲の見通しがあまりにもよすぎる為、なんのハプニングも起きないのである。勿論、個々の楽想の美しさは知性に満ちているのだが、それが余りにも当たり前に軽やかに涼しい顔でそこにあるもんだから、ひねくれ者の私はすいませんと謝るしかできない。いわば、彼の音楽を鑑賞する動機は、イントロを聴いたらなくなってしまうのだ。「ハイハイ、いつものモーツァルトね」という風に。

それを「文学性の欠如」と呼ぶのは何故なのか。試しにWikipediaで"文学"の定義の項を紐解いてみるといい。うだうだぐだぐだあやふやでよくわからないことが書いてあって歯切れ悪い事この上ない。例えば"音楽"の項の定義なんかと比較すると一目瞭然だ。音楽とは何か、という問いに対してはかなりSimple And Cleanに答えてくれるが、文学とは何かと問われても結局よくわからない。飲み屋で絶対に発してはならないテーマ、それが"文学とは何か"、だ。いつまで経っても実りのある議論にならないだろうからね。

しかし、私はそれこそが"文学性"だと思うのだ。自らを定義づけることすらままならない、何が何だかよくわからない、疑心と不安に満ち、迷子のように同じフレーズをトートロジックに繰り返し、結局何にも辿り着けない、ゴミのような人の営み、それが文学なのではないか。

そういった人間の弱さ、無知、無理解、無力愚鈍、欺瞞、卑怯などを直接そのまま描こうとしてもがき苦しみどうにもならない感じは、モーツァルトの神がかった美しさとは対局にある。しかし、そのうだうだと鬱陶しく面倒臭い人の営みの中に、ごくたまに美しい何かが生まれることがある。そういった光と影の境目をたゆたうような人の営みに興味のある私は、モーツァルトの神の光が隅から隅まで行き届いた時間の感覚を失う美の世界には、余り興味はもてないのだった。退屈とは、そういうことである。

読書家の光は、文学に対しては特別の思いがある一方、Favorite Artistの欄にMozartの名前を落とさない。光の趣味嗜好からすると、私のように彼の完璧なる美の世界は、賞賛するけど共感できないとなってもよさそうだが、彼の名をしっかり挙げる訳だ。もしかしたら、彼女はモーツァルトにも私がいうところの"文学性"を感じとっているのだろうか。それとも純粋に音楽家っして作編曲家として参考になるから、なのだろうか。一度突っ込んで訊いてみたいものである。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


タコ  


「おひさま」の岡田恵和脚本(あのちゅらさん1~4を書いた人。南くんの恋人とかイグアナの娘とか以下略)が相変わらず神掛かっている。朝ドラなんて真剣に観てる奴殆ど居ないんだから何もそんなに細かく作り込まなくても、と思うが細部まで実に考え抜かれている。また主演の井上真央の演技が完璧で、朝ドラなんて(以下同文)なのにやたら緻密な印象を与える作品だ。井上のWikipediaをみてみると卒論のテーマが杉村春子だそうな。若い頃から極上の良質とは何かを見極める目を持っている女優。そりゃ成長しますて。

そんな中、特に気に入っているのは近藤芳正(イイダコタロウ先生、オクトパスね)の使い方だ。いけ好かない英語の先生として登場するのだが、ひとつひとつがえらく粋なのだ。主人公と親友2人の一生続く3人組の友情のきっかけ、主人公の夫とのお見合いの場面で共通の知人として名が出る、戦争によって失職し(英語の先生だからね)いちばんウマのあわなかった満島ひかりと相似な境遇で再会、そして先週は終戦後米軍に対して懸命に主人公を擁護(英語の先生だからね)、と普段は登場しないのに節目々々で登場する"裏狂言回し"的な役割だ。

岡田脚本の何が凄いって、彼が登場する場面が最初悉く"気まずい"のである。主人公親友3人組の反目の相手だから当然なんだけど、その気まずさを全部見事に回収していい思い出に変えてみせる。イヤな奴にも必ず何かあるんだ、という愛に溢れた視点を具体的なエピソードの中で表現してゆく技量は素晴らしい。

作曲にも同じことがいえる。それまで音楽的には凡庸、或いはポップスの文脈に載せるとリスナーがどう反応していいかわからずどぎまぎとして気まずい空気が流れるのを、ミュージシャンはとことん嫌うのだが、ヒカルの場合わざとその境界線を狙ってくる。Be My Last、Passion, Keep Tryin'の3部作がそうだし、近作では愛のアンセムの実験性がそうだろう。今更シャンソンとジャズてなぁ。歌詞についてはずっとそう(どんぶらこっことか浮き世とか)なので改めて指摘するまでもない。

だからなのだろうか、滅多にないのだが光が何となく気まずい雰囲気を出したりする瞬間が堪らなく愛おしい。いや作曲法とは関係ないのかな、先週触れたずるさや弱さや卑怯さを愛おしく感じる心は、まとめればあの何となくむずむずする気まずさが軸になっている気がしたので。いや、自分の心って本当にわからないね。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )