無意識日記
宇多田光 word:i_
 



結局、集中力なんだろうなぁ、と思う。作品とは創造という過程の結果に過ぎない、とは言うけれど即ちそれは虚ろい易い(こうは書かんか)人の心を一点に集中させ続けた証なのだろう。

ジャンルは問わない、いや、実力すら問わないかもしれない。スポーツを観戦していると、私の柄でもないかもしれないが、上手い下手関係なく一所懸命ボールを追い掛ける事自体に感動する。技術が幾らあっても、途中で気を抜く選手には入れ込めない。点差がつきすぎてエキジビションに走るのは時々楽しいからまぁいいんだけれど。(実際、その場に居たら想像以上に楽しい。張り詰めていた空気が和やかになるのを肌で感じられるからである)

集中力の持続は、それ自体で作品性をもち人を感動させる。5年前、そうちょうどこの季節だ、静岡にUTADA UNITED 2006 2DAYSを見に行ったのだが、初日はそりゃもう酷かった。あんな歌人に聴かせちゃいかん。いやバンドの演奏はそれ以上に酷かったけど。たった2ヶ月であそこまで行くんだから才能のあるミュージシャンの集団ってやっぱり恐ろしい。

で、だ。その時の光が本当に魅力的だった。わらがい父ちゃんちに600字レポを寄稿した時にも書いた事だが、調子の出ない声を何とかしようと必死でもがく宇多田光の懸命な姿勢はそれだけで私の心を打ち続けた。音楽的な観点からの作品性という意味では落第な出来だったが、お金を払い足を運んだだけの価値のある"人の姿"をこの目と心に焼き付けられたのは人生の中で得難い体験だったといえる。

その奮闘ぶりが実を結び二日目は見違えるように素晴らしい歌唱を聴かせてくれた。バンドは相変わらず酷かったけれど、来てるみんなは光の歌を聴きに来てたのだからそれでよかった。

今の光は考え方も心も身体もプロフェッショナルとして洗練されてしまった。今はもう、余程の事がない限り調整に失敗しないだろうし、音楽的な作品性の質が落第点になることも有り得なそうだ。それでいいと思う。その夜しか光の歌を聴かずに死んでゆく人だって居るのだから100%の確率で合格点を取ればよいのだ。問題ない。

でも一方で、光が今でもあの必死さを心のどこかに持ち続けている事を確認したい自分も居る。わざわざ音のハズレた歌を皆に聴かせる事はない。何か他の方法で、あの、集中力を全開にして身体中の細胞をリアルタイムで組み換えていくような戦慄感を、どこかで味わってみたい気がするのだ。果たして、あの興奮と感激は23歳という若さがあったからこそ為せた業だったのだろうか。いや、違う。光の集中力は落ちていない。集中力の結晶ともいえる作品群、楽曲群で間接的に味わうだけでなく、リアルタイムで味わってみたい。多分、そうやることがいちばん光を身近に感じられる方法なのだろうかな。チャレンジ。確かに、未だにチャレンジし続けられているとしたらそれが何よりの彼女にとっての、そして私にとっての御褒美だといえるだろう。

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義務教育の範囲で"トレード・オフ"の概念を教えるのは無理なのかな~無理だろうな~…七十五日どころではなく続く原発事故関連報道にまだまだウンザリしながら、かるぅく絶望してみる。トレードオフというより、もっとシンプルにいえば複数の問題が持ち上がった時の対処法という概念、枠組みがないというべきか。世の中に危険が放射能漏れしかないのであれば線量が如何程であろうが徹底的に除去、忌避すればよいが、世界はそうやっている間にも様々な出来事を生起させている。地球温暖化防止の為に二酸化炭素放出を抑えようとすれば原発のような"クリーン"エネルギーが必要になるし、脱原発するなら火力発電のような二酸化炭素を放出する機関が必要になるかもしれない。そもそも大量のエネルギー消費自体が…と、あちらを立てればこちらが立たず、あちらとこちらを立てられたと思ったらそちらが沈んでいた…というのが現実である。単体の問題を解決する場合と異なり、そもそも解決というのが何なのかがわからないのが複数の問題に遭遇したと
きの"問題"である。

歌を作る、という作業は常にこの状況下に置かれていると考えることができる。メロディに合う歌詞を考えるときに、ストーリーやメッセージといった内容を伝える為の言葉の選びと音韻を考慮した時の言葉の選びは必ずしも、いや大抵の場合一致しない。言いたい事を言えた上にメロディに載せた時に不自然にならないような言葉を見つけてくるのは至難の業である。

まず作曲があって、あとから作詞をする場合はメロディは固定されているが、光の場合シンガーソングライターなので、うまくいかない場合は「じゃあメロディの方を変えちゃえ」ということが出来る。光とSimple And Cleanで、日本語と英語各々にあわせてメロディを変えたように。

こうして見ると、歌を作るという作業は"作詞・作曲"という風な分裂した言い方をするより"作歌"という独自の作業だと思った方がいいかもしれない。ただいいフレーズが思いつくだけでも、メロディにあわせた言葉を選べるだけでもなく、旋律・内容・音韻のうちどれを基準として重視するかという"価値判断基準の転換判断"こそが作業の主旨だからだ。まさに、問題が何なのかを見極める問題と相対するのが"作歌家"なのだろう。(多分、さっかか、というのが言いにくいから定着しないのだろうなぁ)

人間活動というのは、この作歌家観の中では極めて重要な意味をもつ。ひとつの価値観に基づいた業界に居続けるとこの"問題を見極める問題を解く"能力が衰える可能性があり、作歌家としてはマイナスである。常に外へと目を向け、多様な価値判断基準の間を行き来することがその感性を鈍らせない為には肝要だろう。寧ろ、普段から複数の業界に首を突っ込んで、平時からアーティスト活動と人間活動を並行してやる方が理想かもしれないが、この問題もまた最適な解答の存在しない、問題を見極める問題かもしれない。ややこし。

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