「アンネの日記」の真偽が問題になっているとかいないとか。詳細はわからないので一般論を。
日記や伝記を通して、人は他人の人生を味わい、理解する。しかしそれはどこまでいっても、本人との出会いではない。出会ったのはあクマで"本"でしかない。そこに書いてある、あった内容が真実か虚偽なのかは、結局本人に実際に会うしか術がない。もし会ったとしても真実かどうかを即座に見いだす方法は殆どないが…。
ありきたりな事をいえば、事が現実と関わり合っているか否かと"本"の魅力、面白さとは切り離されるべきだ。2ちゃんでスレが立っても、例えば電車男の話が全て作り話だったとしても、それで楽しめたらそれでいいではないか、となる。まぁその話はいいや。する事自体野暮だ。
現実との連関は"本"の役割ではない。実際に我々は、その人を知るには会うしかない。記述されている何かはのっぺらぼうの筈の版の上に踊る奇妙な図形列でしかない。しかし、だがしかし、だからこそ"本"には役割があるのだ。
我々が誰かと時間と空間を合わせて会ったとしても、他者はどこまでも他者だ。必ず同じ場所に居て同じ景色を見る事は出来ない。貴方が私をフレームに収めた風景を私がみることができないように(写真や絵は、つまりはみているのは紙である)、貴方は私が貴方をフレームに収めた景色を眺めることができない。
"本"は、それを可能にする。踊る図形の足跡は、Not Itself であるからこそ書き手の"私"を私に伝える、いや、同じ"感じ"を私が感じるのだ。表現とはつまるところ、そういうことである。そういうことにしとけ。だから、実際に会う訳ではない"本"との出会いは、その人に極一部分、"なる"ことだ。これは、実際に会うことでは辿り着けない場所である。
光は、かのロングインタビューで(懐かしすぎて涙が出るぜ)、"誰かと居ると、何かと居ると境界線がわからなくなってゆく"という旨語っていたが(お、Moon Safariだ※独り言)、それは彼女が実際に人に会ったとき人を"本"として読み解いてしまえるからだ。実在の人間を"本"にしてしまえるのは並大抵のことではない。Itselfに対してNot Itselfを即座に作り出す。光は、その存在自体が不在の化身なのである。実在すら、現実すら"本"としてしまえる。我々は"本"を読んでそれをまるで現実であるかのように受け止め、泣き、興奮し、落ち込み悲しみ楽しみ嬉しがり感動する。それを「実話ではありませんでした」と後から言われればまるで自分の感動を否定されたかのように感じる。
光は全く逆である。
現実さえ"本"として読み解いてしまえるのだから、何かが嘘でしたとなることはない。現実なんて嘘の特殊例のひとつに過ぎないのだ。そりゃ生きてりゃ得るもんばっかりだからな。しかし、彼女はこうも歌う。『ウソもホントウも口を閉じれば同じ』と。彼女が口を開いたら、ウソとホントウの混じり合いが束の間消えるのだ。だから光は歌手になった。歌う宇多田光はいつでも本気である。本当の気持ち。口を閉じれば同じ。君が居ないなら同じ。君が居るなら同じ。君が居るから、、、。
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