無意識日記
宇多田光 word:i_
 



YES来日最終公演を見てきた訳だが、詰まる所浮き上がってくるのは今の自分の興味・関心の方だった。先日のニコ生の小室哲哉同様、彼の場合はGet Wildの即興ミックスなどを演奏していたのだが、本日の公演もまた、私が見ていたのは、今目の前に居る老人たちが、自分たちが作ったり作らなかったりした40年以上前の名作、それも、ロックの歴史上非常に重要性の高い、影響力絶大な名盤の完全再現を、どれ位"今の自分の音"として演奏しているか、最も平たく言えば、どんだけ心を込めて演奏できているか、その点をいつのまにかチェックしていた。公演前にそんな心づもりを形作った憶えはないのに。

彼らの事を知らない人でも、アニメ「ジョジョの奇妙な冒険」第一期のエンディングテーマを1曲目に据えたアルバムの完全再現でした、と書けば少しは食いついてくれるかな。いやでも、そこを本題にして今日の彼らの詳細を書いてたら時間がかかりすぎるのでそれは置くとして。


彼らをみて思ったのは、ミュージシャンという人種は、それがなんであれ常にエモーショナルでなければ務まらないなという事だった。感情のエネルギー。どれだけ年齢を重ねようと、怒ったり笑ったり悲しんだり楽しんだりというのがなければ、音楽に感情は籠もらない。殆どトートロジーに近いが、しかし、これは深刻な問題である。今そこに心が無いのに音を鳴らしてもそれは死体パペットをダンスさせているだけだ。いやそれはそれで一芸だし極めれば芸術だが、それしかなければ生命は宿らない。我々が生きている以上、そこからは逃れられない。

だから、ミュージシャンは、普通の人以上に"エモーショナルでいる事を許されているべき"だと思ったのだ。私が今日いちばん感動した事のひとつは、スティーヴ・ハウが楽しそうにギターを弾いている事だった。同じ年齢の老人が道端でハウ老師と同じように笑顔でダック・ウォークをしていたら春が来たのかなぁと思ってしまうが、そこがステージである限りそれが最も望ましい。そういう人種なのだミュージシャンは。普通の人なら感情を押し殺す場面でも逆に増幅させて楽器やマイクや譜面に叩き付けるのが仕事、社会貢献なのである。


ヒカルが人間活動に入る時、この一節ばかり引用されるのはイヤだろうけれど敢えてまた書くのだけど、「マネージャーなしでは何もできないおばさんになりたくない」「今まで特殊な職種という事で周囲から必要以上に守られてきた」と語っていた。

今振り返ってみると、これは、順序を逆に考えて捉えてもよかったのかもしれない。つまり、そういった、感情のままに、気の赴くままに生きるスタイル、ミュージシャンだからこそ許される生きざまから離れたくなったから人間活動に入った、という解釈の仕方だ。

であるならば、実は、彼女がアーティスト活動に復帰するタイミングというのは、今まで考えてきたような、「人間活動を経て私は立派に"普通の"社会生活を送れるようになれました。だから自信をもってミュージシャン活動に戻ります。」というような感じではなく、反対に、「人間活動に勤しんで参りましたが、それは私の資質には合いませんでした。やっぱり私はミュージシャンでした。今まで通りの生き方に戻ります。」という気持ちになった時が復帰のタイミングになるのではなかろうか。

この場合、人間活動の成否は問題ではない。彼女が、やるとなったら普通の社会人として生活する、というのは出来そうな事だし、この4年間実践してきたかもしれない。できなかったかもしれない。それはどちらでも構わないのだ。それを通じて、それは合わないと感じ取ったかどうかがポイントなのだ。

確かに、人としても音楽家としても通用するウルトラハイブリッドとして帰ってきたらそれはそれで凄い。でも待ってくれよ。ただでさえ何でも出来るオールストレートAの完璧超人が(ただし、なぜか自転車は苦手)、これ以上なんでも出来たら周囲の立つ瀬がない。言ってしまえば、Hikaruは今よりもっと孤立し、孤独になるかもしれない。

Hikaruには、どこかダメなところ、甘えたところが残っていた方がいい、のじゃないか。それを以てして、周囲は、彼女のように麗しい音楽を生み出す事は出来ないけれども音楽を愛する人たちは、「仕方がないなぁ」と苦笑いしながらすすんで助けてくれるんじゃあないのかな。ただでさえ我慢が得意なHikaruの我が儘をきく事でHikaruのミュージシャンとしての、アーティストとしてのエモーションに生命を与えられるならば、音楽に携わる人間としては大いなる矜持たりえる。一言でいえば、「無理すんな。歌は生まれる。」といったところか。


だから、自分としては、例えば急によくわからないまま月1ラジオを休んだりしたとしても、「それでいい。それがいい。」と言っておこうかな、とも思う。老人になっても、歌う事が好きなままで居て欲しい。これもこちらの我が儘だが、我が儘を与え合う事でお互いが満たされるならそっちの方がいい。甘えるか甘えないかは過程の話に過ぎない。どんな味がしようが何より腹が満たされる事が大事である。あるもん食っとけ/腹が減ったら食うんだ。私の家訓と座右の銘だが、それが結局いちばん私が言いたい事なのかもしれない。私は私とともにある、のだから、ね。

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




ハイレゾツンデレな話が続いているのでもう一度整理しておくと、ポイントは高画質の価値や意味をどう知ってもらうか。これに尽きる。

音と画で事情は違うが、映像の世界ではそれを政治力で強引にやってのけた。まだまだ使えるアナログテレビを無理矢理廃棄させ、デジタルを買わないとテレビが見れなくなるぞと脅して高画質テレビジョンに買い替えさせたのだ。そうなると、どうしてもDVD画質では粗が見えてくる。アナログ時代の画質では気にならなかったのに。それで皆に高画質を知らしめてBlurayをある程度普及させたのだ。もっとも、コンテンツによってはDVDとBlurayが半々、或いはDVD優勢、いやそもそもDVDしか出ていないものも多い。価格差のお陰で、まだそこまでは徹底されていない。裏を返せば、全体主義国家並の強制力をもってしても高画質の価値はそこまで敷衍されていない、とも言える。


音楽についてはそういった政治力、強制力を使える余地がない。特に、日本人の特性かどうかはわからないが、我々が音声に求めるのは判別性・識別性が主であり、高解像度は映像以上に眼中にない。いや耳中にない?そんな言葉はないか。

判別性・識別性とは、「今何と言っているかわかる」或いは「Aと言ったかBと言ったかを区別が出来る」という意味だ。平たく言えば、ニュースの音声を一字一句間違わずに聞き取れれば人はそれ以上の音質をなかなか求めない。それ以上の高音質を耳が感知できないのではない。必要性を感じないから相手をしないのだ。

この壁は大きい。勿論、値段が同じならば(高音質を耳が感知できるのだから)皆高音質を選ぶが、差額を払ってまで手に入れたいかというと否、だ。DVDとBlurayですら今の感じなのだから、MP3とハイレゾではなかなかに難しい。勿論、差額が問題なのだからDVDとBlurayが同じ値段になったら皆Blurayを選ぶ(実際は、コピープロテクトや再生機器への負荷等を考慮してDVDを所望する層はある程度残るだろうが)。ハイレゾも、今ある圧縮音源配信販売価格と同額になれば選ばれるようになるだろう…が、音楽ファイルには容量の問題もある。昨今の64GB以下の容量でハイレゾ音源を入れるとなるとかなり足りない。やはりここでも、映像より難しいだろう。

そこで前回は、その差額を払ってでもハイレゾを手に入れる動機を喚起する目的として、ライブ盤への注力を提案した。特にBlurayは、配信音源と異なりリビングのしっかりしたステレオで観て・聴いてもらえる確率がぐっと高くなる。ハイレゾのアピールの為にはよりよい環境となるだろう。


…という話を、今までしてきた。昨日は初心者の為のハイレゾ講座まで掲載されていて、宇多田チームの注力具合も伺い知れてきた。各地の試聴会々場ではハイレゾ音源とハイレゾ対応プレイヤー&ヘッドフォン?が用意されていたとか。よい販促になった事を願う。できれば上述のようにライブ音源がよかったが。「まるでHikkiが目の前で歌ってるみたい!」と感じさせれれば価格差なんてもう視界に入らないから。


…まぁ今日は休日だし、取り敢えずまとめまで。

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )