たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

心が風邪をひいたら

2014-08-23 04:06:42 | Weblog
 何もかも投げ捨てて、がむしゃらにひとつのことを頑張っていると、頑張っていることが普通になってきて、それをやってないと不安にすらなってしまうようになる。
 そして、そのひとつ時間を掛けていることが認められないと一気に具合が悪くなるし、何もかもが嫌になってしまうことだってあるだろう。

 誰かに魂を売り渡すわけでもなく、本当の意味でのやる気をどこか他の場所に移すわけでもなく、自分できちんと自己実現しよう、自分たちだけで努力しようと思っていれば思っているほど、この世では報われない。
 一緒にやってくれる人にものすごく感謝をして、みんなが一人ひとりが楽しいように頑張っても、自分を支持してくれる人なんてごく一部だし、そこに愛情を持っていても実際に何割かには裏切られるし、周囲を愛していれば簡単に成り立つかといったら、そんなに甘い話でも無いのだ。

 っで、何かにアプライしたり、応募したりしても、自分が望むだけの結果は、きっと出てこない。
 そんなにガチにならなくても、、みたいなやる気のない犬のほうが評価が高いわけで、みんながみんな(俺もまさにそうだけど)、ラクして貰えるもんは貰っとこ、みたいな人しかいないから、いつまでもいつまでも、本質的に新しいモノづくりはでてこないし、それはどの世界でもそうだが、研究の世界ではさらにエンハンスされていると思う。

 かといって、忠義の塊のような人間に本当の能力は決してつかないし、その逆で、本当の能力を得ようと努力する人間には忠義のカケラも存在しない。両者は原理的に相反するもので、どちらも少しずつ上手く上昇させていこう、なんて考えている人間も、所詮自己実現して成功することはできない(し、大抵の場合、忠義の犬になるだけだ)。

 だとしたら、何を反省すべきか?
 きっと、それがとても難しく、答えのない状況になってしまうことが多い。っま、とりあえず、わかんねーから、黙ってても貰えるもんは貰っとくか、ってね。

 きちんと努力し、しかも自分たちできちんとやろうとしていたのにも拘らず、誰にも認めてもらえない、もしくは、全然即物的な結果がでないときに、自分の努力の仕方を反省したり、努力の絶対量を反省したり、もしくは審査側がクズだなという結論にもっていてはいけない。

 本当に反省すべきは、自分は、なんて他人任せだったんだろう、と、出力の最後だけを、自分勝手に誰か(の評価)に投げてしまうその姿勢を反省すべきなのだと想う。
 クソみたいなシステムにアジャストしようとしてしまったのは自分自身。そこに目先のどうでもいい成功に目がくらんでアプライしてチャレンジしていたのは自分自身なのだ。それは、自分でやってやろう、という気持ちが最後欠けているからだし、少なくとも、欠けているなっと思いながらアプライしたなら、また結果は違ったはずだ。

 自分や自分たちが、これはめちゃくちゃ良いモノづくりをしたはずだ、と想うんなら、自分自身で全社会に売りこめや!
 そこを誰か営業の人がやってくれるとか、上の人がやってくれるとか思っているのは、結局、自分で、自分たちだけで自己実現してやろうという、気持ちの強さが絶対的に足りない証拠なのだ。

 心からこう思えた時に、はじめて前を向ける。そして、新しく本質的なモノづくり、社会を変えることの達成に一歩近づくのだと想う。

 それがついに達成されたとき、これまでに、ずっと傍にいてくれた人も、めちゃくちゃムカついた人も、過去からの参加者全員が集合できて、みんなでみんなに感謝し合えて、いつまでも一緒に笑っていられたら、一番イイよね。

 それに俺は、どんなにつらいことがあっても、悲しいこと、泣きたいことがあっても、暑い中一本62円のガリガリ君梨味を食えばとても幸せに感じるし、友達や仲間と行きつけの居酒屋に行って一杯100円のお疲れさんサワー飲んで刺身食えば生きていて良かったと思える。
 なんやかんや、そんなもんでいいじゃないか、と納得しながらも、前に進もうと齷齪している自分や仲間たちが大好きなのだ。
コメント
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