たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

ややこしくしたい病

2014-03-12 02:45:20 | Weblog
 『この薬剤に対してロバストであったと言えます』
 「なんでいちいちロバストとか言わなあかんのん?」
 『それは俺がそう訊きたいです。あらゆる場面で、そう言え、って言われるんです』
 「だから、非感受性、とか言うたらイイでしょ?」
 『そんなん、同じっすよ。この薬剤入れても結果はカワラナイ、で十分じゃないですか』
 「HAHAHA。せやろ。そうやって、自分、所詮コミュニティに飼い慣らされとるんや」
 『はは、確かにそうかもしれないですね。でも…』

 俺からすれば、俺以外の全員、みんな、もっと、そうです。っという言葉は発することができなかった。

 自らの乏しい実力を誇示したいなら、話をややっこしくみせると手っ取り早い。それは俺がこのページでよくやってることだし、そういうことを平気で仰る偉そうな先生も沢山いる。

 ものごとをややこしくすることで自分の力を誇示する。

 そういうことを平然とできるようになることが、あなたが俺にいつも言ってた「大人」なのかもしれないね。
 こういうめんどくささこそが、あらゆる社会貢献の進捗を遅らせ、社会全体のモチベーションを下げる。そういうことを各個人の心ではわかっていても、自らのレゾンデートルを守りたいがゆえ誰もが止めることはできず、純粋な正しさで突破しようとする者は、彼らの自分勝手なシステムの中で殺される。比喩ではなく、本当に殺される。

 この卑怯な手段が蔓延するシステムのなかで生き抜くには、薄暗闇に隠れていることが重要なのだ。
 目立つな!出る杭は打たれるのだから!!ってね。

 みんなちょっとずつやってること?、でも大きくやりすぎてしまえば、もしくは権威なく権威ある者と同じレベルでやってしまえば、フィードバックがかかる。それも、純粋な気持ちの正しさで突破するのと同様、システムの中で殺されてしまう。
 その様を、いま話題になってる理研を中心とするグループに観ているのかもしれないよね。非捏造から捏造への変化は、相転移ではなく、クロスオーバーなのだから。

 だから、「研究者として生きて行くためには、そういうことが必要なのだ!」
 っと、誰かを不条理に失墜させることすら正当化したり、責任逃れをして、あからさまに自らのレゾンデートルを守ろうとする者は、俺は心から軽蔑する。研究に限らねーと思うけど。
 ただ、俺だって、もう、そういう人でも完璧に許せる。

 「許してやれよ」
 『どうして?』
 「簡単なことさ。どうして俺がそんなヤツを許せると思う?それは、心からクズだと思ってるからだよ」
 『マジか(笑)』

 実は、逆にも考えることができて、ややこしくする、ってのは、それほど自信がないことの裏返しとも言える。

 世界でいちばん好きだー!愛してる!!

 っとまっすぐ言えない理由のほとんどは、自分の気持ちそのものに自信がないから、でしょ?笑
 誤魔化さず、きちんとまっすぐに実力をつけていこうと思うなら、わざわざややこしくものごとを主張するようにはならないし、気持ちに対してまっすぐであり続け、満たされるようになることが理論的に明らかならば、難しいやり方やまどろっこしい伝え方をせず、はっきり口に出して気持ちを伝えられるはずなのだ。

 だとしたら、何事も焦らず、ゆっくりと、感じたことを感じたまま行動してけばイイだけなのだと思う。
 周囲の状況変化に対する単なる「応答」ではなく、自発的な「意志」として、ね。
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7、物理から観る生物-モノサトリ、バケマナビ、ナマモノ、チマナビのIntroduction

2014-03-11 03:48:27 | 自然科学の研究
 このシリーズを更新するのも1年と3ヶ月ぶりくらいですね。忘れてはいないんですが、どうしても。。
 ちなみにこのシリーズの名前は、高校時代、理科の科目の名称をふざけてこう呼び合っていたことに起因しています。特に意味は無いんですけどね。

 さて今回は、生物物理、みたいな話をしたいと思います。
 生物物理、っていうとアクチン骨格の話を想像する人が多いと思いますが、俺が話したいのはそうじゃなくて、むしろ、専門が物理の人が生物を扱うとき、って意味での生物物理。最近こういうほうが生物物理ってしっくり来る気がします。

 いま物理学科で、これから生物やりたい、って人は是非読んでみてね。

 まず、ぶっちゃけておくけど(それが売りなので)、物理の人が、生物物理の研究室を選ぶ大半の理由は、「大学で物理がわけわかんなくなったから」だと思う。笑
 この構造は日本である限り少なからずそうだと思うし、生物業界のなかで物理学科出身の人を見つけると嬉しくて物理の話をしてみるんだけど、どうも話が合わない。限定的もしくは現象論的な数式については得意だけど、決して物理が得意なわけではねーんだな、ってのが生物物理を専門とする人のイメージです(あくまで俺の意見ね)。

 とか言ってる俺も物理学科出身で生物をやってるわけですが、少なくとも卒研では物性理論(低温物理)の研究室にいたわけで、これから物性理論の研究室に移動して、なんらかの結果を出す自信は今でもあります(慣れてないので時間はかかると思いますけど)。なので、お前らとはちげーんだよ、ってわけじゃないですけど、卒研から生物物理じゃないだけ、少しは物理そのものができると思いたいです(笑)。

 物理そのものが苦手タイプの生物物理屋さんは、生命現象をムリヤリ物理で習った式や論理に落とし込むのが大好きです。
 調和振動子型ポテンシャルになります!とか、それが等速で伝わって全体で波になります!とか、カノニカルアンサンブルが使えます!とか、どうにかシンプルにして、すでにある、しかも超簡単な学部レベルの物理に落とし込んだり、キーワードだけ使ったりするのが、好きなのです。

 そうすると何が起こるかというとですね、、生物物理では、細胞や生物由来の物質を使った「無意味な積み木」をしている研究が多いのです(あーぁ、また思ってること言っちゃった、また何か言われる笑)。
 (俺も含めてですが)よーするに、生物物理屋さんは、単に「めんどうな生物系」であるケースがほとんどです。これならよっぽど、論理的思考力が弱くても、単なる生物系のがマシかもしれません。

 前からここでちょくちょく言ってることですが、「生物物理」の心というのは「生命とは何か?」ということを今までの物理とこれからの物理を見極めながら考えていく行為だと思いますので、めちゃくちゃ本質です。
 でも、やってる人が、その域まで行けるはずが無い努力の仕方をしてる部分が大きくて、なかなか認められないところがあるのかもしれません。

 今後、これから、物理から出発して生物を目指すならば、学部の物理学が苦手では絶対にダメです。

 力学も解析力学も電磁気学も量子力学も熱力学も統計力学も物性論も相対論も相対論的量子力学も、全部一通り、理解していなくては、「物理から観る生物」なんて扱えるわけがないんです。
 これら「精緻な論理」をしっかり学んだ者でないかぎり、「生命とは何か?」なんて超難解な問題に、太刀打ちできませんから。まぁ、「生命とは何か?」に立ち向かっているフリはいくらでもできるかもしれませんし、所詮ポピュリズムである「生命起源」についてはテキトーなことが言えるかもしれませんが。

 物理学の特殊性によって得られるはずの圧倒的な思考力を、ちょこっとしか得ていない程度の思考力で、生物学の研究をすることは確かに意味があることでしたが、そんな人は、もうすでに沢山いるわけで、今はあまり意味がありません。

 なので、これからはもっともっと、物理そのものをきちんと学んだ人が、生物を研究して欲しいものだなぁ、と未熟者ながら思います。そうすることで、無意味な積み木を、いかにして有意義な積み木にするか、考えるだけの頭を持った人が多くなりますし、本質的に必要な理論を考える人が増えます。

 まぁ、今いる場所は、まだ、物理が得意な生物物理系が多い環境ではありますが、俺は、(研究の世界で)生き残ることが目的ではありませんので、生物物理系の人の多くが抱えるウィークポイントをクリアするために、有機化学の研究室を選びました。
 生物をいきなり物理で語れるわけがなくて、有機化学で記述される分子の性質に一度落としたうえで、生物を物理で語る必要があると直感的に思ったからです(それが正しいかどうか今もわかりません)。何か苦手なことを克服したかったら、それらが当然行われている環境を選ぶのが最も手っ取り早いですから、みんなが化学が得意な環境を求めていましたし。

 そんな俺が、さらに次の一手を選びかけている。きっと、すごいことが起こせる。
 未来に挑戦しようという気持ちが胸中に湧き上がるのを感じる日々である今が一番輝いているのかもしれない、と感じると、少しずつ元気を取り戻していくことができる。

 失敗してもまだ大丈夫。27歳になって、自分の若さを確認するために、自分の皮膚は水を弾くほどの疎水性があるかどうか確認してみたが、まだなんとか大丈夫だったし。
 ね、生物物理だからこそ、化学や物性の知見が大事なのだよ。(笑)
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27

2014-03-09 03:51:37 | Weblog
 27歳になりました。

 いやー、ほんと3月生まれって、心おきなく年をとることができます。友達や知り合いのほとんどが僕の年齢以上になってから、年をとりますからね。笑

 高2から10年ですか。
 それを象徴するような1日でしたが、自分自身をよく見つめ直せた気がします。

 何に価値があって、何に意味があるのか。そのために、大切にしていくべき人は誰か。
 それを意図するチャンスは、そのとき、その瞬間にしか訪れない。たとえばだけど、2次会で喋ればいいや、なんて考えは甘ったれで、価値ある人ほど、すぐに帰ってしまいますからね(だから最近、くだらない会合には一切出席しません笑)。
 あとでもいいや、って、ドCグループ的感覚が、すべてのチャンスを逃していってしまう。

 ここから始まる1年間は、特に、こういうことに注意を払っていきたい。しっかり考究することも大切だけど、自分の行き先は、常にいきなり、瞬間瞬間に決まっていくし、そういうことにこそ導かれる。

 それから、もっともっと、重要な人と、どーでもいい人の境界を濃くしていこうとも想っています。もちろん、表面上は、誰とでも分け隔てなく接しますが、そこから、ある程度は、わかりやすい指標を提示しながら、価値観をやりとりできればいいかなって考えています。

 っま、取り急ぎ、そんなもんかな。

 そうそ、このブログも、かなり影響力を持ってきちゃっているのもわかっています(本来そういう目的は無いんですけど)。
 俺と直接関わっている人との実生活内における影響力はもちろん昔からそうなんだけど、研究のことでも、その他の何か有益な情報でも、ここ最近、圧倒的にPV数とGoogleでの検索順位も上がってきていますので、慎重に言葉を選んでいこうとも思っています。
 その記事の総アクセスが10000PVを超えると「(社会的に)意味がある」記事になると言われていますが、そういう記事が確かに多くなってきていますので、自分のここでの言葉がどれほど影響があって、どれほどより良い方向に持っていけるか、きちんと考えなくちゃいけません。

 今一度きちんと言っておきますが、コメントは、古い記事でも、最新の記事でも、きちんとしてるものであれば、ちゃんと反応します(時間がかかるかもしれませんが)。まぁ、一番手っ取り早いのは、俺に直接意見を言ってしまうのが手っ取り早いです。
 「俺はこんなの違うと思う!」「この意見はクズだ!」等々、言いたいことがある方は是非。いくらでもディフェンスしますし、オフェンスが甘すぎればオフェンスし返しますので。笑
 (俺の本音が知りたい人は、裏ブログを探しましょう。もっと更新するようにしますよん。)

 ここから始まる1年、このページでは、言葉の影響力、ということをきちんと考えながら、言葉を選んでいこうと思いますので、日々観てくれて意見を言ってくれる皆さん、俺に知らせずにこっそり隠れて観てくれてる皆さん、全然関係なくフラっと観てくださってる皆さん、これからもどうぞよろしくね。
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「書ける」の科学 -STAP細胞の報道について-

2014-03-06 03:52:04 | 自然科学の研究
 何回かこの記事を書こうとして、断念したり、途中でお蔵入りにしてきましたが、今日は書き切ろうと決心をしています。
 STAP細胞に関連する報道と研究のあり方について。研究の内容については、そんなこともあるのかなぁ、pH5.7の温泉に入りながらごはん食べれば俺の上皮細胞もES細胞likeになるのかなぁ(ex. 岩手県松川温泉pH5.7)、なんて、正直少し懐疑的ですが、それよりもむしろ、研究そのものについてのほうが、考えさせられます。

 もしも、何かの拍子にマスコミに乗せられて、研究テーマが世に広く知れ渡ることになったとしたら、多くの研究(少なくとも生物を対象としているもの)が、STAP細胞に関連している今の状態のようになると、俺は思う。それほど、研究というのは、あやうい梯子の上でふらふらしているのだ。

 まず、一般の方、研究に携わってる方でも理論系の方に向けて、はっきりと主張しておくけど、「再現ができない」というのは、非常によくあることなのです(それでイイかどうかは別としてね)。
 その人しかできない、みたいなヒト依存性。夏にしかできない、みたいな季節限定系(湿度や温度が関係?)。高い建物だとできない、アメリカだとできない、などの空間依存性。この試薬メーカーのこの品番じゃないとできない、みたいな精製および合成過程依存性。

 実験研究は現実と向き合う行為なので、高校の実験の時間や学生実験のように、そんなに甘かーねーんです。
 「再現ができない」くらいで、その研究があやしい、なんて言ってたら、多くの研究は捏造であることになってしまう(それが真実なのかもしれないけど笑)。

 そして、それに追随する、もっともっと大きな問題があります。それは、自然科学の研究では、「書ける」の科学なんです。
 大学の超エライと言われている大先生や有能だと思われている大学院生は、よく、バカみたいに、「書ける」と言います。それは、論文が「書ける」、(科研費や学振の)申請書に「書ける」、学会の要旨に「書ける」、という意味です。
 「書ける」ということが、研究者として、研究者を目指す上で、最も大切であり、すべては「書ける」に結びついていなければ意味が有りません。つまり、例えば多くの先行研究とまったく異なっているがゆえに、なかなか「書けない」ような科学の事実を追究し続けることは、(研究者のレゾンデートルを守る上で)まったくもって意味が無いのです。

 「書ける」ためには確かに再現が必要なんですが、生物系の暗黙のルールで、だいたいのものは3回再現性がありゃーいいのです。生物学や化学をプロパーとする連中は、誤差論が(数式が?)得意ではないですから、とにかく3回、って、エライ先生でも覚えてしまっています。つまり、実際には、夏にしかできなくても、10回に1回しかできなくても、嘘を言わなきゃよくて、何かを言わないというのはルール違反では決してありませんから、とにかく3回、再現が取れれば発表してしまいます(これをやってるだけでも真面目だと思います)。
 おそらく、発表されている論文や学会発表したデータの再現をまったくの同レベルで1年以内に実行せよ、と言われたら、半分くらいのラボができません(俺がいくつかのラボに所属している経験があるのをお忘れなく)。だから、それを、高々1ヶ月程度で理研のこのチームに求めるのは、酷というものです。

 生物系のネタが多いNATURE誌ですが、誤差の議論の苦手さ、枚挙的な価値観の現れから、とにかくデータ数が多いのが特徴です(通称データ数だけネーチャー)。回数を誤魔化すために、母集団や要素を多くするのです。ワーカーホリックになってしまうんじゃないか、というくらい、この雑誌は、とにかくデータ数を稼がなくてはいけません。
 ですから、また、それを全部再現しろ、っというのは、もうすでに、無理があるんですよ。

 そうそ「書ける」ことが唯一無二に大事ですから、内容のどうでもイイ部分は、コピペで全然構いません。
 マテメソをコピペすることはよくやることだし、それでいちいち盗作だ、なんて、きちんとサイトされていれば誰も言いませんよ(ちなみにこの論文のなかのKaryotype解析で用いている多色蛍光in situハイブリダイゼーション法はきちんとサイトされています)。そんなことよりも、KC1、ってなってるのに、そのままパブリッシュしてしまうNATURE誌のエディターやレフリーのほうが問題です。

 今回、マスコミにとって、持ちあげやすいファーストオーサーだったのですね。

 若手、女性、AO入試で大学に合格、深夜まで論文を100報近く読み米国の研究室ゼミでその発表が絶賛される、データ数の多さを誇るNATURE誌に掲載、セレンディピティーによる発見。
 まさに、きちんとした理解をせずとも、ワーカーホリックとなっていれば、いずれ幸運が訪れる、というサクセスストーリーが「書ける」ことが好きな、やる気の無い多くの日本人にウケが良さそうな情報ばかり。
 おそらく、報道とは大きく異なり、実際のところ、この人自身はめちゃくちゃ有能な人なんだと思う。

 決められた枠組みのなかで、真面目に努力したことを発表しただけで、、とは思うけど、それほどの効果をもたらすためには、もう一歩上の階層を考えなくてはいけなくて、枠組みそのものを問い直す必要性を、たった一人の、しかも若手研究者にすべて求めなくてはいけない、、んだろうか?それは、少しオカシイことだと俺は思う。
 だいたい、このファーストオーサーを若くしてリーダーに仕立て上げて、オイシイ思いをしているおっさんがいるはずで、そういう人間が周辺を固めなくちゃいけないんだよ。

 でもまぁ、だからこそ、このケースを我々は真摯に受け止めなくてはいけない。
 実験研究のアウトプットの仕方および自然科学の研究そのものの行く末をきちんと考究しなくちゃね。

 尊敬する、ある理論系の先生が、「理論は図なんだよぉ!」っと仰っていた。まさにその通りで、数式は、自然を語る上での道具の一つに過ぎないのだから、むしろ、その大元をそのまま記述した図の方が的を射る可能性は高い。
 理論でも、実験でも、「書ける」よりも、まずは図が描ける、というほうが大事なんじゃないかと思うのだ。

 それにさ、そもそも、再現性があることがイイ、って決めつけが、常に正しいとは限らないでしょ?
 そりゃ「書ける」上では、大義名分的に大切なんだけどさ。

 松川温泉で自らの皮膚を万能細胞として培養しながら、そんなことを考えるくらいのバカさ加減が、研究には必要なのだ。
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羽1/2

2014-03-05 03:24:46 | Weblog
 今日発売の清木場俊介のデビュー10周年記念企画アルバム「唄い屋・BEST Vol.1」に、なんとEXILEのATSUSHIが参加している。このニュースを観たとき、SHUNとATSUSHI、彼ら2人の復活に、嘘じゃないかと思った。
 コラボ曲は「羽1/2」で、2003年に発売されたEXILEのセカンドアルバム「Styles of Beyond」の一曲だ。このアルバムのなかで、俺が最も好きな曲だ。

 8年前、俺は浪人生がちょうど終わったとこで大学入学直前に、一番好きだったアーティストであるEXILEのボーカルSHUNが脱退するというニュースに、もうその時期が来てしまったか、と思った。ファンはみんな、どこかできっとSHUNが脱退するということは予見していたんじゃないだろうか。ただ、時期がこんなに早いとは思わなかった、っと当時思っていた。
 それからEXILEは7人になり、14人になり、ASAYAN当時からのファンとしてはありえない変貌を遂げたが、それでも俺は、自分が好きな楽曲は聞いていたし、SHUNが抜けた後のEXILEの曲も、ここで紹介したり、ピアノで弾いてみたりしていたが、アカペラでカバーしたのも6人だった頃のだし、2001年から2005年のEXILEの楽曲やライブはある種、今以上に印象深く、凄かったと思う。

 もう永遠にこの2人が奏でる新しい曲は聞けないと覚悟していたが、それが、まさか、俺にとっての、この時期に、しかも気持ちとピッタリ合う選曲で、もう一度聞くことができるとは。色んな意味で、面白いし、嬉しい。人生のタイミングって、スゴい。

 モノづくり、という意味で、彼らから教えてもらったことは多い。6人最後の全国ライブのときに、パフォーマーのMAKIDAIが「モノづくりって、気持ちが入ってないと、何にも意味が無いし…」と言っていたが、その言葉こそが、俺が普段伝えていることの原点。
 それはバンドでもアカペラでも、そして研究でも、俺はアプライしてきたつもりだし、役に立ってきたし、これからもそうなる。

 そして、「気持ち」が大切にされ続けているならば、永遠に続いていける信頼関係となるのだと、このコラボを聞いて、そう思った。このタイミングで俺にそう思わせてくれるとは、やはり彼らは最高のヴォーカリストだと思う。

 何が意味があるのか、何に価値があるのか、そのために、何をしていけばいいのか。
 それを、もう一度、きちんと考える必要があるし、考えるよう促す必要がある。

 前回書いたように、確かに、自然科学は、気持ちから考えを乖離させなくちゃいけない。
 でもそれは学習においてであって、研究、つまり、モノづくりという観点なら、むしろきちんと全員の気持ちを入れ込まないなら意味がないと俺は思う。

 きちんと気持ちを入れ込んで、整えて、完成させていこう。本質的に新しいモノを創ろう。
 胸張って戻れる、その日まで。


EXILE 羽1/2



EXILE ATSUSHI×清木場俊介 - 羽1/2
Dailymotionより
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心を動かした自然現象の事実

2014-03-03 02:25:35 | Weblog
 自然科学を理解していくためには考えを心から切り離す作業が必須だ。
 しかし気持ちを完全に切り離せるわけもなく、時として、自然科学は、一生残るほどの感情を芽生えさせてしまうのも、また事実である。

 そこで今回は、「俺の心を動かした自然現象の事実」を、時系列に沿って、紹介しようと思う。


 1.原子番号は原子核内の陽子の数によって決定される

 すべての物質は砕いていけば粒になるだろう、ということは、自分で小学校のあいだに考えついていたので、「原子」や「分子」という存在そのものには、何らスゴさを感じなかった。だが、それらの粒の種類がその粒に含まれている同じ種類の粒子の個数によって構成されている、という事実を知った理科第一分野の授業中のその瞬間、俺は先生に自分の考えで本当にあっているかどうかと訊き直したことをよく覚えている。
 ほんの数秒前まで世界は多様的であったのに、現世など数種類の数の論理に落とし込めてしまうことが、とても不思議だったし、変な感覚にとらわれた。人類は、もうそんなことまでもわかってしまっているのか、とある種の落胆と期待を同時に残してくれた事実であった。

 2.太陽系内惑星の多様的な性質

 すいきんちかもくどってんかいめい。それくらいしか知らなかった自分にとって、地球型惑星としての地球の特殊さ、木星の大赤斑、天王星の自転軸が公転面に対して横倒しになっていることなど、枚挙的な事柄でも、とても面白かった。
 と同時に、少なくとも太陽系内の惑星に生命はいないだろう、ということも気付かされた。まぁ、衛星にはいるかもしれないということが、その後すぐ、特命リサーチ200Xで知ったけど、ここの印象が強いために、なんとなく、太陽系に地球外生命はいない気が今でもしている。

 3.ヒトの消化器官の内部は体外であるということ

 考えてみれば当然なのだが、何故かとても感銘を受けたのを覚えている。これは生物を考えるうえで実は非常に重要な考え方なのだが、そんなことよりも、自分の中に外部があるというのはなんとも言えない気分になってくる。
 酵素の種類の多さにびっくりしたのもここに含まれるのかもしれない。消化器官の話は好きだった。

 4.エネルギーと質量は等価である

 物理学科の人間は、多かれ少なかれ、アインシュタインが発見した、エネルギーと質量が等価の式に憧れを持っていると思う。よーするに、質量があるということについてエネルギーが存在している、という意味であるが、それに付随して、ある結合において質量が欠損してしまうという事実および対生成は、かなりの衝撃を受けた。
 何かが存在している、ということは、力の空間的な激しさを起こす能力、で言い換えることができる、っということを知ることは、世界の真実を一側面だけで一挙に知ってしまったような気分にすらなる。今その概念を捉えてみても、やはり不思議な気持ちになっている。

 5.真核生物においてテロメラーゼ活性は生殖細胞とガン細胞にしか起こらない

 これこそが生命の本質だ、と直観的に感じた。テロメアさえ維持できれば、不老不死も夢ではないかもしれない。
 DNAは細胞内で二重螺旋構造をとっているので、その複製にはリーディング鎖とラギング鎖の2つからのアプローチが必要だ。多くの酵素は分子構造の立体的性質を有しており、DNA複製酵素も例外ではないため、方向性が逆のラギング鎖では岡崎フラグメントを生成する必要がある。しかしその末端ではプライマーが用意できないために、岡崎フラグメントを形成できず、末端配列であるテロメアは細胞分裂のたびに消えていかざるを得ない。よって、命を存続させていくためには、回数券が存在してしまっている。
 それを修復する酵素がテロメラーゼであるが、残念ながら、生殖細胞とガン細胞にしか存在しないのだ。生命における、こうした巧妙さは、地に足がついた精緻な論理をひとつひとつ理解していこうとしている物理系の人間にとってみると、どうしても神秘的に思えてしまう。この事実こそが、俺の生物に進むキッカケとなった。

 6.超伝導現象はマクロな量子現象である

 量子論の考え方は、よくわからなすぎて、そんなものか、まぁそりゃめっちゃ小さくなりゃ確率論、その期待値がマクロな性質を決めていくんだ、同種粒子は原理的に区別できない?、そりゃ小さい世界だからねぇ、と、理解不足が高じて、何も感動を覚えなかったが、マクロな量子現象については、やはり心動かされた。
 BCS理論において、相転移を掌握するためにランダウによって導入された革命的な概念である秩序パラメータをΦを用いて書くことはその先の重要な帰結への伏線であり、多くの物理学科の学部生が何も期待していなかった物性論で手に汗握る瞬間だと思う。そして、エネルギーを効率よく稼ぐためのマクロからの要請によって、クーパー対という禁じ手を用いて、電子が(ボゴリューボフ準粒子として)ボース凝縮していく考察は、まるでマジックのようだ。
 こういう考え方は21世紀、必ず、生命現象の理解に応用される、と俺は期待している。

 7.ビックバンの根拠は宇宙マイクロ背景放射が滑らかに観測されること

 ビックバン、という出来事から、この宇宙が始まったということは、どこかで訊いて、とっくの昔に知っていたが、恥ずかしながら大学に入るまで、その根拠を知らなかった。
 宇宙マイクロ背景放射、通称、CMB放射は、現在まで残り続けている宇宙創成時の産声の残響だ。統計力学や前期量子論でよくでてくる黒体輻射とも強い関わりがあり、CMBが空間的にとても緩やかに分布するために、星々の光だけでは説明がつかないのだ。
 アーノ・ペンジアスが言うには、FMラジオの電波を特定のラジオ局と合わないところに設定したときの雑音の約0.5%は宇宙創成時以降に波長が伸びてしまったCMB放射であり、宇宙創成の名残を個人で簡単に検出することができる。なんと感動的な事実であろうか。

 8.自由ディラック粒子の完全条件を成立させるためには負エネルギー解を無視できない

 つまり今では実験的にその存在が確認されている反物質の予測だが、これを理論だけで示してしまうのは、非常に素晴らしい。
 ミクロな現象を記述するシュレディンガー方程式に、超速い動き(相対論的要請)を追加したのが、相対論的量子力学の基礎方程式であるディラック方程式なのだが、そこに外部ポテンシャルを一切介在させない場合に成り立つ粒子を自由ディラック粒子と呼ぶ。非相対論的量子力学では(ご存じの通り)エネルギースペクトルは不連続なのだが、この自由ディラック粒子の固有値問題を解くと、なんと連続スペクトルが出てくる。そして、規格化直交条件とともに完全条件を成立させるためには、どうしても、存在するはずのない負エネルギーの存在を容認しなくてはいけない。
 この、正負のエネルギー、2つの完全系の発生こそが、物質と反物質、2つの世界の存在証明であり、その意味がわかったとき、一気に世界が2倍に増えたような気分になった。目に見えるこの「物質」の世界は、CP対称性の破れによって生じた世界。真空の意味、物質と反物質が合わされば光になってしまうこと、その足がかりになっている自由ディラック粒子って、とても興味深い自然科学の一側面だよね。


 皆さんは、どんな自然現象の事実に、感銘を受けてきましたか?
 これは俺が大学生までに知った事実で、大学院生以降についてもう少しありますが、紫色に悠々と嘯くミヤコワスレの如く、今は暫し、沈黙していることにしましょう。

 終わってみれば常に、そうであってしかるべきように感じる、様々な事実。確かに、Fコードから始まるC調の曲のように、突き進んでみれば、意外と道は開けているのかもしれない。

 実際にそうでなくても大丈夫。
 結局実空間に何も寄与できなくても、存在しなくなって消え去ってしまっても、他人の心に確かに宿った松明の灯こそが、より良き変化であり、革命なのだから。これら自然現象の事実だって、そう教えてくれているじゃないか、っと。
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