たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

闘っている相手の正体

2014-01-28 00:23:04 | Weblog
 優しい人間が月日と大金を搾取され、それを平然と姑息な人間が自らの存在を維持するために正当化する。
 俺はこういうありふれた構造が嫌いだ。そして、この構造に隠れている、一見するとわかりにくい自分勝手を発している人間が、嫌いだ。

 強いて言うなら、俺は、このような、俺が嫌いな人間と戦っている。

 残念なことに俺には慧眼さがあるゆえ、こういう人間を見抜ける。それを指摘すれば、慧眼さのカケラも持ち合わせていない人から、「我々はずっとこうやってやってきた」「なんでそんなに文句ばっかり言うの?」とうるさがられる。
 俺は至極当然のことを指摘しているだけなのに、なんて損な天賦の才だろう(笑)。

 俺が、その集団のなかの悪習的な物理法則にとらわれないのはワケがある。俺には、とても信頼している人が、いろいろな場所にいて、その数が、普通の人間よりも圧倒的に多いからだ。
 慧眼さの源は、きちんと信頼関係がある友達の多さ。だからこそ、常に、真実という恥ずかしがり屋の子どもを上手に根気強く引っ張りだすことが可能になるし、こんなところでブログを公開することができる。

 いじめられている側の人間および傍観者は、自らが不当に搾取されていることに、心の奥底では、実は気がついている。それを引っ張りだす方法はいくつかあるけれど、その実験操作をしてみると、やはり外の世界が正しいんだ、って気がつくことができる。
 まぁ、いじめっ子側の人間も、実は物理法則につられて仕方なく搾取している場合が多い。カッコウが変温動物からの形質進化をもろに受けているせいで体温調節が不可能で、卵を一定温度で温めることができないから、托卵をするのと同じで、いじめっ子も、いじめることは、物理的に仕方のないことが多い。怠けようとして托卵するのではないし、悪意を持っていじめを行うわけではないのだ。

 だから、自然現象との戦いと人間関係の戦いは、常にイコールであって、それらが独立なんてことは、論理的に、ありえないのです。そんなんじゃ、まだまだ、思考力が甘いですよ。

 そう、闘っている相手の真の正体は、どんなときでも、物理現象そのものだ。

 「でも、そうやっていって、お前がその中の全員から嫌われちゃったら、どうすんの??」
 『ずいぶん心配性だね。そうなってしまったら、この場所から出ていくだけじゃん。』

 行くアテなんざ、いくらでもある。俺が行きたいところに道はできるし、それは俺が決めることではなく天命だ。
 俺は常にこうやって移動してきたし、これからもそうなる。そう思っていれば、自然と正しい論理が出てくるのだが、その源は、(精神的および実質的に)周囲に存在してくれている信頼関係のおかげだ。

 ずっとずっと、真っ直ぐさを貫き続ける。もしも、それで嫌われたなら、その場所から出ていくべき運命。
 っま、所属している限り、義務は果たすけどね。
コメント
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