たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

優しさの剣術

2014-01-23 01:30:14 | Weblog
 言葉はその存在だけで誰かを傷つける。その刃を何に向けていくか、何には絶対に向けてはいけないか、よくよく考えていかなければ、取り返しのつかない事態になってしまう。

 意識として、切先を物理現象そのものに向け、柄頭は我々ヒトの側に向けるようにする。それだって振り回しているうちに誰かを傷つけてしまうことは多いし、自分の言葉のせいで溢れだしてしまった紅血を目の前に、そっぽ向いてしまいがちだ。
 たとえ本当のことであっても、厳しい現実としての真実であり、その責任は術者ではなく当事者に依るものだとしても、術者によって切られてしまったのなら、一瞥であっても懺悔の念を表すべきなのだと想う。

 何かのほんのちょっとした間違いで相手の状態が悪くなってしまったのなら、原理的に絶対もとに戻すことができる。誤解は解けても言葉は残ってしまうのだが、論理的に解釈されうるのであれば、病理学的に言えば、心に住みついた悪性腫瘍に対しての抗がん剤になりうる。

 そのような言葉は優しさと賢さを同時に発現しなければならず、自分自身を切りつける可能性すらある逆刃刀になるのかもしれない。
 しかし、それほどの覚悟が無いのならば、誰かを助けるなんてことは、できないのだ。

 くだらない雑務や、出席しているという事実だけが重要な会合に対して、時間を費やしているうちに、大切な純粋さは削られていき、助けられる、、いや、助けなければならない煌めきが失われる。んね?そういう覚悟があるのか?ということ。これは俺自身に訊いていることでもあるのだけど。

 すべての事柄は、いずれは一点に収束する。取り残していた問題も、連続性の中で育まれてしまった問題も、すべて。
 そのときに、また、どのような人が傍に残ってくれ、どのような人がいなくなるのか、、それを決めるのは、俺ではなく、周囲の善意だ。

 その舞台を、確実に積み上げていくように、正しいことを見つめ、可能なことを達成し、不可能なことを可能にするだけの剣術を得て、この賭けにみんなで勝っていきたいという想いが胸中に湧き上がっている。
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