たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

"Fallin'" of Beyond

2014-01-07 01:53:54 | Weblog
 時間と能力の大きさを定義できる完備なベクトル空間内で、相手が未来に創りうる能力の可能性を分布したベクトル場を冷徹に見破ることができる人間こそが、研究者であり教育者である。逆に言えば、それができなければ、どちらになることもできない。
 前にも何度か書いているが、研究と教育はまったく同一の作業だ。私は研究はできるが教育はからきしダメ、と自己分析して開き直っている研究者まがいの人間は、結局のところ、研究もできない。っというか、そんなヤツは大義名分から言っても、大学にいるべきではなく、研究所に行くべきなのだが。

 時間変化していくこのベクトル場は生徒と後輩の数だけ存在し、それらをどのように捉え、どのようにより良い方向へと導き、自らの合格へと昇華させるか。この作業は、研究計画を立てるときと、まったく同じ思考を使う。
 相手が未来にその能力を得ることができるギリギリのラインを狙って、より良きを提示していく。こうしていくことこそが、相手にとって失礼にならず、さらにモチベーションも下げずに、魚の釣り方を教えることができるのだ。

 このような機関を求めることはもはや難しい。
 ならば俺自身が創ってしまうより他ないではないか。

 「有名になりたいの?」
 『いや、どうですかね。そういうわけでもないんですが、そうとらえることもできるかもしれません。』
 「私はね、別に、無名で、誰にも認められずに、山奥でコツコツと実験できればそれでいいと思うんだけど、それじゃ、ダメなの?」

 確かに。別にどこかに発表したりしなくても、何かを理解して死ぬのと何かを理解しないで死ぬのとじゃ、根源的に違う。ただ、その論理に落とし込むには、俺らは若すぎるとは思いませんか?
 それに、すべての信頼関係は、我々自身をダメな方向へ落とし込んで、そこで系の存続を成り立たせるために構築されるべきではなく、純粋な気持ちとして社会貢献のために構築されるのだから、やはり本当の意味での研究と教育を提供できるシステム作りを考えないと!

 つまり、2人で落ちていくだけの関係がホンモノであるはずがなく、2人で社会に貢献していくような姿勢を取れることこそが、手っ取り早いロマンティックなどではない、ホンモノなのだと思う。

 そうするためのメソッドは、いくらでもそのあたりに転がっている。最大の問題は、それほどの理想を、少し無難さを切り捨ててまで達成させる意志が、みんなにあるかどうか。

 それに飽きたら、いつでも、出ていく覚悟はできている。
 ほらね!予想通り「ターニングポイントは2年後」だったでしょ??
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