スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

サンケイスポーツ盃船橋記念&ゲプハルト

2017-01-11 19:21:07 | 地方競馬
 第61回船橋記念
 横並びの発馬からフラットライナーズが抜け出して単独の逃げ。2番手はブラックレッグ,キョウエイロブスト,マリカの3頭で併走。2馬身ほど開いて単独の5番手にイセノラヴィソン。差がなくアルゴリズムとサウスビクトルが続き,さらに差がなくクラトイトイトイ,ヤマチョウフェア,ムービングライトの3頭。残る4頭はここから少し離されました。最初の400mが22秒9のハイペース。
 直線に入ったところでフラットライナーズのリードが2馬身ほどに。2番手で追っていた3頭のうち,キョウエイロブストとマリカはここで脱落。ブラックレッグはじわじわと伸びてフラットライナーズとの差を詰めましたが,交わすには至らず,逃げ切ったフラットライナーズの優勝。ブラックレッグはクビ差で2着。脱落した2頭に代わって3番手に上がったイセノラヴィソンを,中団から末脚を伸ばしたムービングライトが捕え,2馬身差で3着。イセノラヴィソンはクビ差の4着。
 優勝したフラットライナーズは7月の習志野きらっとスプリント以来の南関東重賞2勝目。そのレースが地方競馬交流であったのに対し,ここは南関東限定。未対戦の馬もいましたが,強力な上昇馬というのは不在。それなら斤量は増えていても最有力候補であろうと考えていました。スプリント路線に絞ってからは安定して走っていますから,南関東重賞はまだ勝てるでしょう。ただ,重賞で通用するほどのスピードは,現時点ではないように思います。母の父はタイキシャトル。母の半姉に1998年のオークスを勝ったエリモエクセル
 騎乗した船橋の左海誠二騎手は習志野きらっとスプリント以来の南関東重賞制覇。第46回以来16年ぶり(2005年は実施されていないため)の船橋記念2勝目。管理している船橋の林正人調教師は船橋記念初勝利。

 『スピノザ・生涯と教説』の第一部に該当する『スピノザの生涯』が発刊された後,第二部を発刊することなく死んでしまったフロイデンタールJacob Freudenthalの遺稿をまとめ,著作を完全な形として発刊した編者はカール・ゲプハルトでした。
                                   
 フロイデンタールが,後年の研究家がスピノザの人生について探求するために大きな礎を築いた人であったとすれば,ゲプハルトはスピノザの哲学について研究するために偉大な役割を果たした人でした。ゲプハルト自身が研究者で,スピノザの哲学について研究した人であったからというのもその役割のひとつですが,最大の功績は,1924年にハイデルベルク版といわれるラテン文によるスピノザ全集を編集した点にあります。少なくともこの当時,これはラテン語のスピノザ全集としては決定版でした。そのために編集者の名前からゲプハルト版ともいわれています。岩波文庫版で畠中尚志が訳しているスピノザの著作は,ラテン語のものはすべてゲプハルト版を底本とした日本語訳となっています。これだけでゲプハルトがどれほどの役割を果たしたかは理解できるでしょう。ただし,『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』に付されている番号はこれより前,1840年代に出たブルーダー版といわれる全集のもので,ゲプハルトが付したものではありません。また『スピノザ往復書簡集Epistolae』の書簡の番号も,1883年のフローテン‐ランド版といわれる全集で改定されたもので,ゲプハルト版は原則的にそれに倣っています。例外は書簡四十八の二と六十七の二で,これはフローテン‐ランド版が出版されたときに未発見のものでした。
 スピノザの死後,ほどなく遺稿集Opera Posthumaは出版されましたが,これは発禁になりました。その後もスピノザの著作は広く流通していませんでした。ゲーテJohann Wolfgang GoetheとヤコービFriedrich Heinrich Jaobiが汎神論論争をしていたのは1770~1780年代ですが,この時代でもおそらくスピノザの著作は容易に入手できなかったでしょうし,所有していることを公にはしにくかったのではないかと思われます。この論争を機にドイツではスピノザブームが生じ,1800年代に入って全集も出るようになりました。その決定版が1924年のゲプハルト版だったのです。
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