スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王将戦&経済事情

2017-01-24 19:37:56 | 将棋
 尼崎市で指された第66期王将戦七番勝負第二局。
 久保利明九段の先手で角道オープン三間飛車。郷田真隆王将は早い段階で角を交換。相銀冠の将棋に進みました。
                                     
 これは封じ手で8九から飛車が回った局面。8筋ががら空きになったので後手は☖8六歩と攻めていきました。
 ☗5八金は玉に近付けつつ銀取りで味のいい手。後手は☖5三桂と受け☗7七桂と打ったところで☖8七歩成としました。8筋の突破を果たすためには一旦は受けるのは仕方なかったのではないかと思います。
 ☗6五桂☖7八と☗5三桂成まではおそらく一本道。ここで☖6九ととは取れなかったようで☖5三同金と手を戻しました。先手に☗6六飛と逃げられますが☖8九飛成と龍を作るのがその代償。
 僕は最初に並べたときにはこの応酬は駒得の先手の方がよいように思えました。実際に☗7一角☖7七角☗5三角成☖6六角成のときに☗3九桂と投資した局面は先手玉が固く,後手が勝つのは容易でないように思えます。
                                     
 この後の進行からすると後手にもチャンスがなかったとは思えず,第2図は最初に僕が感じたほどには後手も悪くないのかもしれません。将棋は終盤で玉の早逃げで手を稼いだ先手の勝ちになっています。
 久保九段が連勝。第三局は来月1日と2日です。

 スピノザが生涯を通して独身であった理由を考える場合には,まずスピノザの哲学と関係なしに,以下の点を踏まえておく必要があります。
 スピノザは1669年の暮れか1670年の年初にフォールブルフVoorburgからハーグへと住居を移しました。ハーグでスピノザが最初に住んだのは,ファン・デル・ウェルフェという未亡人が所有していた家の三階部分の屋根裏でした。ここは後にコレルスが居住することになる場所です。コレルスはここに住んだことを契機にスピノザに興味を抱き,伝記を書きました。
 スピノザは1671年5月初旬には,同じハーグのヘンドリック・ファン・デル・スぺイクの家の一階部分に移ることになります。この移住の理由は,ウェルフェの住居の部屋の家賃がスピノザにとって荷が重すぎたためであったとナドラーSteven Nadlerは断定しています。
 この当時のスピノザは,自身が志願して減額したとはいえ,シモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesが遺言として残した年金を受け取っていました。つまり一定額の収入は確保されていたわけで,経済的にひどく困窮していたとはいえないと僕は思います。しかし,いかに田舎よりも物価の高かったであろう都市のハーグとはいえ,自分ひとりが間借りするための家賃が負担になったのですから,裕福な生活というには程遠いものであったでしょう。そういう生活を送っていたスピノザが,結婚して妻と共同生活を送り,子どもを養育していくということは,現実的に不可能であった可能性が否定できません。つまりスピノザが好むと好まざるとに関わらず,実際の経済状況が,スピノザに結婚することを許さなかったという可能性は完全には否定できないのです。ましてスピノザはシナゴーグから破門されたユダヤ人でしたから,結婚相手を探すのも難しかった可能性もあるでしょう。
 フロイデンタールJacob Freudenthalは独身を通した哲学者による倫理的関係に関する異なった判断というのを一律に批判しています。しかしたとえば宮廷人としてかなり裕福な生活をしていたライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizが結婚しなかったことと,在野の異端者であったスピノザが結婚しなかったことを,同じレベルで語ることはできないのではないかと僕は思います。

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