③で,だれかによって誘われた歌い手は,次のように返します。
わかってる 未来はまだ遥か遠くて届くまでに
まだ何千年もかかると
バラ色だといわれた未来が現実となるのは,まだ何千年も先であるということが,歌い手には分かっているのです。当然ながら何千年後に歌い手が生きているということはあり得ないわけですから,歌い手にとって実際に意味しているところは,自分が生きている間にはバラ色の未来が訪れることはないということになります。このバラ色の未来というのは,歌い手にとってのバラ色の未来でもあるでしょうが,もっと広く,人類にとってのバラ色の未来であるとみえます。というのも,③では手を取られたり目を閉じられたりしたのは,歌い手ではなく「あなた」であるとされていたからです。
同時にこのことは,歌い手がそう歌っているその時点のことだけを意味するともいえない面があります。いつ,だれがそのような誘いをかけられたところで,バラ色の未来はまだ何千年も先のことであるというようにも受け取れるからです。そしてもしそうであるならば,人類にとってのバラ色の未来はいつでも何千年も先のことであって,永遠に訪れることがない時代のことになるでしょう。
延長の属性Extensionis attributumの間接無限様態の認識cognitioへ至る過程を,思惟の属性Cogitationis attributumの間接無限様態の認識へ至る過程にそのまま当て嵌めてみます。すると,何らかの不条理な認識,この場合は思惟の様態cogitandi modiの認識でなければならないので,実際はある観念の観念idea ideaeが有するような不条理の先に,思惟の属性の間接無限様態であるYの観念の認識へ至るということになります。この場合,Yの観念というのがどのような観念であるかは人間の知性intellectusにとっては明らかではありません。というのは,それは不条理な認識の先にあるものなのですから,十全な観念idea adaequataであるのか混乱した観念idea inadaequataであるのか,あるいはもっと正確にいえば,十全な観念の観念であるのか,混乱した観念の観念であるのかといえば,混乱した観念の観念にほかならないからです。要するに,この認識の先にYの観念の観念が生じるのだとしても,それは混乱した観念なのです。ここではYの観念が思惟の属性の間接無限様態であるとされているのですから,これは,人間の知性は思惟の属性の間接無限様態を,混乱して認識するcognoscereということを意味します。いい換えればそれが十全な観念としてどのような形相formaを有するものなのかということは,人間にとっては不明なのです。このゆえに,河合はスピノザは思惟の属性の間接無限様態についてはそれを明示しなかったのだと主張しているのであり,この主張には説得力があると僕は感じているのです。
ただし,これはあくまでも河合の考え方なのであって,本当に思惟の属性の間接無限様態が何であるのかということは,人間にとっては不明であるということを,僕自身が確実視しているというわけではありません。ただ,このような結論というのは,あるいは別の方法でも示すことができるかもしれないと僕は思っていますので,その方法を示しておきましょう。もちろんこれも河合と同様に,思惟の属性の間接無限様態が何であるのかということに着目するのではなく,思惟の属性の間接無限様態をある観念とみたときに,その観念の観念がいかにして人間の知性のうちに発生するのかということに注目した方法です。
第一部公理四は,結果effectusの十全な認識が原因causaの十全な認識に依存するといっています。
わかってる 未来はまだ遥か遠くて届くまでに
まだ何千年もかかると
バラ色だといわれた未来が現実となるのは,まだ何千年も先であるということが,歌い手には分かっているのです。当然ながら何千年後に歌い手が生きているということはあり得ないわけですから,歌い手にとって実際に意味しているところは,自分が生きている間にはバラ色の未来が訪れることはないということになります。このバラ色の未来というのは,歌い手にとってのバラ色の未来でもあるでしょうが,もっと広く,人類にとってのバラ色の未来であるとみえます。というのも,③では手を取られたり目を閉じられたりしたのは,歌い手ではなく「あなた」であるとされていたからです。
同時にこのことは,歌い手がそう歌っているその時点のことだけを意味するともいえない面があります。いつ,だれがそのような誘いをかけられたところで,バラ色の未来はまだ何千年も先のことであるというようにも受け取れるからです。そしてもしそうであるならば,人類にとってのバラ色の未来はいつでも何千年も先のことであって,永遠に訪れることがない時代のことになるでしょう。
延長の属性Extensionis attributumの間接無限様態の認識cognitioへ至る過程を,思惟の属性Cogitationis attributumの間接無限様態の認識へ至る過程にそのまま当て嵌めてみます。すると,何らかの不条理な認識,この場合は思惟の様態cogitandi modiの認識でなければならないので,実際はある観念の観念idea ideaeが有するような不条理の先に,思惟の属性の間接無限様態であるYの観念の認識へ至るということになります。この場合,Yの観念というのがどのような観念であるかは人間の知性intellectusにとっては明らかではありません。というのは,それは不条理な認識の先にあるものなのですから,十全な観念idea adaequataであるのか混乱した観念idea inadaequataであるのか,あるいはもっと正確にいえば,十全な観念の観念であるのか,混乱した観念の観念であるのかといえば,混乱した観念の観念にほかならないからです。要するに,この認識の先にYの観念の観念が生じるのだとしても,それは混乱した観念なのです。ここではYの観念が思惟の属性の間接無限様態であるとされているのですから,これは,人間の知性は思惟の属性の間接無限様態を,混乱して認識するcognoscereということを意味します。いい換えればそれが十全な観念としてどのような形相formaを有するものなのかということは,人間にとっては不明なのです。このゆえに,河合はスピノザは思惟の属性の間接無限様態についてはそれを明示しなかったのだと主張しているのであり,この主張には説得力があると僕は感じているのです。
ただし,これはあくまでも河合の考え方なのであって,本当に思惟の属性の間接無限様態が何であるのかということは,人間にとっては不明であるということを,僕自身が確実視しているというわけではありません。ただ,このような結論というのは,あるいは別の方法でも示すことができるかもしれないと僕は思っていますので,その方法を示しておきましょう。もちろんこれも河合と同様に,思惟の属性の間接無限様態が何であるのかということに着目するのではなく,思惟の属性の間接無限様態をある観念とみたときに,その観念の観念がいかにして人間の知性のうちに発生するのかということに注目した方法です。
第一部公理四は,結果effectusの十全な認識が原因causaの十全な認識に依存するといっています。