スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

霧島酒造杯女流王将戦&一例

2020-10-17 18:46:14 | 将棋
 13日に指された第42期女流王将戦三番勝負第二局。
 室谷由紀女流三段の先手で三間飛車。後手の西山朋佳女流王将も三間飛車に振っての相振飛車。先手の美濃囲いに後手の矢倉という戦型になりました。
                                        
 先手が飛車取りに銀を打った局面。後手は飛車を逃げずに☖5八ととしました。
 先手は熟考して☗1四銀不成と飛車を取りました。これだと後手も☖4九とと取る一手。先手は☗6一飛と打ちました。これは詰めろなので☖7一歩と受けたところで☗6四飛成。後手は☖1四香と銀を取って詰めろをかけ,先手は☗7五角と出ました。
                                        
 この手が攻守兼用の一手で,局面は先手の勝ちになっています。第1図から後手は飛車を取らせては負けでしたので,☖1三飛と逃げておくべきだったことになりそうです。
 室谷三段が勝って1勝1敗。第三局は30日に指される予定です。

 僕たちが認識している神Deusは,延長の属性Extensionis attributumおよびそれに対応する思惟の属性Cogitationis attributumによって説明される限りでの神であって,絶対に無限な実体substantiaとしての神ではないという僕の見解opinioは,『エチカ』の理解に対してもある程度の影響を与えます。ここでそういった部分のひとつをあげておくことも徒労ではないでしょう。
 スピノザは第五部定理一五証明Demonstratioを,次のような手続きで進めています。
 まず第三部定理五三により,僕たちの精神mensは僕たちの働く力agendi potentiaを観想するcontemplariときに喜びlaetitiaを感じます。次に,第五部定理一四により,その喜びには神の観念idea Deiが伴っています。しかるに第三部諸感情の定義六により,外部の観念を伴った喜びLaetitia, concomitante idea causae externaeが愛amorといわれるのです。よってこれらのことから,僕たちは自分自身のことを明瞭判然と認識するcognoscereときに,神を愛することになるのです。
 ところで,この証明の中でいわれている神の観念は,第一部定義六でいわれているような,絶対に無限なabsolute infinitum実体としての神の観念であるかといえば,そうではないのです。このことはこの定理Propositioの訴訟過程から明らかにすることができます。どういうことかというと,まずスピノザは,第五部定理一四の証明では,第五部定理四を援用します。第五部定理四の意味のうちには,この定理でいわれている何らかの明瞭判然たる概念notioというのが,共通概念notiones communesであるということが含まれています。このことはスピノザがこの定理を論証する中で,第二部定理三八を援用していることから明白です。ところで,僕たちの精神のうちに共通概念が発生するのは,僕たちの身体corpusが何らかの外部の物体corpusに刺激されるaffici限りにおいてです。したがってこの共通概念というのは,神が延長の属性Extensionis attributumおよび延長の属性に対応する思惟の属性Cogitationis attributumによって説明される限りでの神と関連付けられる概念といわなければなりません。したがって,第五部定理一五で神を愛するといわれているとき,愛されている神は,絶対に無限な実体としての神ではなく,延長の属性によって説明される限りでの神であり,延長の属性を対象ideatumとした思惟の属性によって説明される限りでの神であると解するべきだというのが僕の結論になります。こういう例が,ほかにもあると考えてください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする