昨日の第28期倉敷藤花戦挑戦者決定戦。対戦成績は中井広恵女流五段が2勝,石本さくら女流初段が1勝。
振駒で石本初段の先手となり,角道オープン三間飛車。後手の中井五段の囲いに不備があるとみて先手が駒損を覚悟の攻めに出ましたが,思ったほどの戦果をあげることができず,作った龍が自陣に戻ることに。その時点で先手は苦戦に陥っていたと思われますが,決定的な差がついていたというわけではありませんでした。
ここで先手は☗6六角と王手に打ちつつ龍が移動した後の☖5七香成を防ぎましたが,これが疑問手で,はっきりとした差がついたようです。
☖3三銀の合駒に先手は☗2六龍と逃げました。後手は☖5六歩☗同歩として角を使えるようにしてさらに☖6二飛と回りました。
これで眠っていた飛車も使えるようになり,後手は勝利への目途が立つことになりました。したがって第1図では後手の大駒の捌きを封じる意味で,☗7六龍と逃げておくのがよかったのではないでしょうか。
中井五段が勝って挑戦者に。タイトルを失った第12期以来,16年ぶりの倉敷藤花戦三番勝負出場。第一局は来月5日の予定です。
無限知性intellectus infinitusをXの観念ideaとみなすことができるという点で,思惟の属性Cogitationis attributumの直接無限様態については,それが思惟の様態cogitandi modiのうち第一のものである観念でなければならないという規則は守られています。これと同じように,思惟の属性の間接無限様態についても,Yの観念であるということが遵守される必要があります。
このとき,河合の論述というのは,YすなわちYの観念の観念対象ideatumは何であるのかということに向っているのではなく,Yの観念を人間の知性がいかにして獲得するのかというベクトルで展開されているのです。このことは,無限infinitumの第三の規程に含まれる不条理の先に,第二の規程のひとつである間接無限様態が発生してくると河合がみているということから明らかだといえるでしょう。ですから,思惟の属性の間接無限様態がYの観念であるといわれる場合には,人間の知性のうちにあるYの観念が論述の対象となっているのではなくて,Yの観念の観念がその対象になっているのです。そして第二の規程と第三の規程の間にある関係は,無限という概念notioにおいては一般的な関係であると河合はいっているのですから,実はこのことは思惟の属性についてだけ妥当しているのではなく,ほかのすべての属性についても妥当するといわなければなりません。もっとも,河合がいっているのは人間の知性による認識cognitioですから,実際には第二部公理五の意味によって,思惟の属性のほかに問題となるものがあるとすれば,それは延長の属性Extensionis attributumの場合だけであるともいえます。
様態のうち第一のものが観念でなければならないのは,いうまでもなく思惟の属性だけです。だから思惟の属性の様態について考える場合には観念の観念が考えられなければなりません。しかし延長の属性の場合には,たとえば延長の属性の直接無限様態がPであって,延長の属性の間接無限様態がSであるとするならば,Pの観念とSの観念だけを考えればよいのです。そこでもしも第三の規程を延長の属性に該当させて,その認識いい換えるなら何らかの物体corpusの観念から不条理が発生したときにSの観念に到達するなら,延長の属性の間接無限様態はSであるという結論に人間は到達することができます。
振駒で石本初段の先手となり,角道オープン三間飛車。後手の中井五段の囲いに不備があるとみて先手が駒損を覚悟の攻めに出ましたが,思ったほどの戦果をあげることができず,作った龍が自陣に戻ることに。その時点で先手は苦戦に陥っていたと思われますが,決定的な差がついていたというわけではありませんでした。
ここで先手は☗6六角と王手に打ちつつ龍が移動した後の☖5七香成を防ぎましたが,これが疑問手で,はっきりとした差がついたようです。
☖3三銀の合駒に先手は☗2六龍と逃げました。後手は☖5六歩☗同歩として角を使えるようにしてさらに☖6二飛と回りました。
これで眠っていた飛車も使えるようになり,後手は勝利への目途が立つことになりました。したがって第1図では後手の大駒の捌きを封じる意味で,☗7六龍と逃げておくのがよかったのではないでしょうか。
中井五段が勝って挑戦者に。タイトルを失った第12期以来,16年ぶりの倉敷藤花戦三番勝負出場。第一局は来月5日の予定です。
無限知性intellectus infinitusをXの観念ideaとみなすことができるという点で,思惟の属性Cogitationis attributumの直接無限様態については,それが思惟の様態cogitandi modiのうち第一のものである観念でなければならないという規則は守られています。これと同じように,思惟の属性の間接無限様態についても,Yの観念であるということが遵守される必要があります。
このとき,河合の論述というのは,YすなわちYの観念の観念対象ideatumは何であるのかということに向っているのではなく,Yの観念を人間の知性がいかにして獲得するのかというベクトルで展開されているのです。このことは,無限infinitumの第三の規程に含まれる不条理の先に,第二の規程のひとつである間接無限様態が発生してくると河合がみているということから明らかだといえるでしょう。ですから,思惟の属性の間接無限様態がYの観念であるといわれる場合には,人間の知性のうちにあるYの観念が論述の対象となっているのではなくて,Yの観念の観念がその対象になっているのです。そして第二の規程と第三の規程の間にある関係は,無限という概念notioにおいては一般的な関係であると河合はいっているのですから,実はこのことは思惟の属性についてだけ妥当しているのではなく,ほかのすべての属性についても妥当するといわなければなりません。もっとも,河合がいっているのは人間の知性による認識cognitioですから,実際には第二部公理五の意味によって,思惟の属性のほかに問題となるものがあるとすれば,それは延長の属性Extensionis attributumの場合だけであるともいえます。
様態のうち第一のものが観念でなければならないのは,いうまでもなく思惟の属性だけです。だから思惟の属性の様態について考える場合には観念の観念が考えられなければなりません。しかし延長の属性の場合には,たとえば延長の属性の直接無限様態がPであって,延長の属性の間接無限様態がSであるとするならば,Pの観念とSの観念だけを考えればよいのです。そこでもしも第三の規程を延長の属性に該当させて,その認識いい換えるなら何らかの物体corpusの観念から不条理が発生したときにSの観念に到達するなら,延長の属性の間接無限様態はSであるという結論に人間は到達することができます。