11日の夜に松戸競輪場で行われた燦燦ムーンナイトカップの決勝。並びは永沢‐斎藤の北日本,大石‐成清‐武田の南関東,寺崎-山本の近畿,阿竹-岩津の四国中国。
スタートを取ったのは寺崎でそのまま前受け。3番手に阿竹,5番手に永沢,7番手に大石で周回。残り3周のホームから大石が上昇開始。寺崎を叩きにいきましたが,寺崎は引かずに突っ張り,いきなり先行争いに。残り2周のホームまで続いた先行争いは寺崎が制し,大石は圏外。この間に阿竹が内から上昇。打鐘で寺崎の前に出ると寺崎は浮いてしまい,山本が岩津にスイッチ。隊列は阿竹-岩津-山本-永沢-斎藤‐成清‐武田の順で7人の一列棒状に。バックから山本が自力で発進。すぐに前のふたりを飲み込み,そのまま後ろを離していく形で優勝。2着争いは阿竹の後ろから出た岩津と,山本を追う形で伸びた永沢の接戦となり写真判定。3車身差の2着は外の永沢で,岩津はタイヤ差で3着。
優勝した京都の山本伸一選手はこれが初めてのグレードレース優勝。ここは新鋭の寺崎の脚力が上位と目されましたので,展開は有利になる可能性がありました。大石を突っ張った寺崎の走りがよかったということになるでしょう。ただ,寺崎が浮いたときに,本来であれば迎え入れるべきだったようには思います。寺崎はレースの経験が少ない選手ですから,そもそも阿竹に内を掬わせないようなアシストもあってよかったのではないでしょうか。
神Deusをどのように解するべきなのかということは別にして,人間が神を十全に認識するcognoscereことが可能であるということ自体は,スピノザの哲学の中では否定することができません。たとえば第五部定理二四は,人間が神を十全に認識することができるということを前提としなければ成立しないといえます。ただしこの神を,絶対に無限な実体substantiaとしての神と解してよいのかどうかは微妙だといえるので,それを検討することにします。
事物を十全に認識するということは,その事物の本性essentiaを十全に認識するということと等置することができます。これは第二部定義二から明白だといわなければなりません。そこでいわれているのは,事物とその事物の本性は一対一で対応し合うのであり,かつその他の事物やその他の本性とは対応し合わないということだからです。しかるに神の本性は,無限に多くのinfinita属性attributumによって構成されるということが,第一部定義六でいわれています。つまり人間には認識することができない属性が,神の本性に含まれているのです。ですからこの点からすれば,人間が絶対に無限な実体としての神を十全に認識することは不可能であることが一目瞭然であるとさえいえるでしょう。
このことと,人間が神を十全に認識することが可能であるということは,矛盾しません。というのは,人間は延長の属性Extensionis attributumと延長の属性に対応する思惟の属性Cogitationis attributumについては十全に認識することができます。そしてこれらの属性が神の本性を構成しているということは間違いありません。さらにこれらの属性は,それ以外の属性とは実在的に区別されるのですから,それらの属性を認識することができないとしても,そのこととは関係なく神の本性として認識されるのです。すなわち人間は神の本性を十全に認識することができるということになりますから,人間は神を十全に認識することができるのです。ただそれは,上述したような意味においての絶対に無限な実体としての神の認識cognitioであるとはいえません。絶対に無限な実体としての神に対応させていうならば,延長の属性および延長の属性に対応する思惟の属性によって説明される限りでの神の十全な認識であるというのが適切でしょう。
スタートを取ったのは寺崎でそのまま前受け。3番手に阿竹,5番手に永沢,7番手に大石で周回。残り3周のホームから大石が上昇開始。寺崎を叩きにいきましたが,寺崎は引かずに突っ張り,いきなり先行争いに。残り2周のホームまで続いた先行争いは寺崎が制し,大石は圏外。この間に阿竹が内から上昇。打鐘で寺崎の前に出ると寺崎は浮いてしまい,山本が岩津にスイッチ。隊列は阿竹-岩津-山本-永沢-斎藤‐成清‐武田の順で7人の一列棒状に。バックから山本が自力で発進。すぐに前のふたりを飲み込み,そのまま後ろを離していく形で優勝。2着争いは阿竹の後ろから出た岩津と,山本を追う形で伸びた永沢の接戦となり写真判定。3車身差の2着は外の永沢で,岩津はタイヤ差で3着。
優勝した京都の山本伸一選手はこれが初めてのグレードレース優勝。ここは新鋭の寺崎の脚力が上位と目されましたので,展開は有利になる可能性がありました。大石を突っ張った寺崎の走りがよかったということになるでしょう。ただ,寺崎が浮いたときに,本来であれば迎え入れるべきだったようには思います。寺崎はレースの経験が少ない選手ですから,そもそも阿竹に内を掬わせないようなアシストもあってよかったのではないでしょうか。
神Deusをどのように解するべきなのかということは別にして,人間が神を十全に認識するcognoscereことが可能であるということ自体は,スピノザの哲学の中では否定することができません。たとえば第五部定理二四は,人間が神を十全に認識することができるということを前提としなければ成立しないといえます。ただしこの神を,絶対に無限な実体substantiaとしての神と解してよいのかどうかは微妙だといえるので,それを検討することにします。
事物を十全に認識するということは,その事物の本性essentiaを十全に認識するということと等置することができます。これは第二部定義二から明白だといわなければなりません。そこでいわれているのは,事物とその事物の本性は一対一で対応し合うのであり,かつその他の事物やその他の本性とは対応し合わないということだからです。しかるに神の本性は,無限に多くのinfinita属性attributumによって構成されるということが,第一部定義六でいわれています。つまり人間には認識することができない属性が,神の本性に含まれているのです。ですからこの点からすれば,人間が絶対に無限な実体としての神を十全に認識することは不可能であることが一目瞭然であるとさえいえるでしょう。
このことと,人間が神を十全に認識することが可能であるということは,矛盾しません。というのは,人間は延長の属性Extensionis attributumと延長の属性に対応する思惟の属性Cogitationis attributumについては十全に認識することができます。そしてこれらの属性が神の本性を構成しているということは間違いありません。さらにこれらの属性は,それ以外の属性とは実在的に区別されるのですから,それらの属性を認識することができないとしても,そのこととは関係なく神の本性として認識されるのです。すなわち人間は神の本性を十全に認識することができるということになりますから,人間は神を十全に認識することができるのです。ただそれは,上述したような意味においての絶対に無限な実体としての神の認識cognitioであるとはいえません。絶対に無限な実体としての神に対応させていうならば,延長の属性および延長の属性に対応する思惟の属性によって説明される限りでの神の十全な認識であるというのが適切でしょう。