14日に甲府で指された第68期王座戦五番勝負第五局。
振駒で久保九段の先手となり5筋位取り中飛車。後手の永瀬拓矢王座は急戦も含みに入れた駒組。
先手が歩を突いた局面。後手は少し考えて☖5四歩と突きました。もちろん先手としてもこの仕掛けがあるということは分かっていたでしょう。
☗同歩はこの一手なので☖8八角成☗同銀☖4五角までは一直線。
ここは分岐ですが☗3八玉と寄り☖6七角成を許して☗7七桂と跳ねました。
この手順は振飛車党らしい捌きを狙った手順といえそうです。ただ,振飛車の捌きは玉を美濃囲いに固く囲ってこそという一面があります。実戦の展開と感想戦の内容からすると,先手は玉を固くするのが難しく,すでにここで後手がリードしているのではないでしょうか。したがって分岐のところでは☗6八金として,☖2七角成の方を許すべきだったかもしれません。もしそれでもダメなら,第1図の☗7五歩がそもそも無理だったということになるでしょう。
3勝2敗で永瀬王座が防衛。第67期からの連覇で2期目の王座獲得。同時に九段への昇段を決めました。
僕たちには認識するcognoscereことができない無限知性ntellectus infinitusがあることを,僕たちは少なくとも絶対に無限な実体substantiaである神の観念idea Deiから導出するのです。もちろんそのとき,僕たちは絶対に無限な実体としての神を十全に認識することができるといえるのかということが問題としては残りますが,神あるいは神の思惟の属性Cogitationis attributumが,思惟の属性の直接無限様態である無限知性の原因causaであることには間違いないのですから,この種の無限知性についての認識cognitioが,原因から抽象された認識であるということはできないように思えます。同様に,神は自己原因causa suiですから,たとえ絶対に無限な実体としての神を十全に認識することが僕たちにはできないのだとしても,その神の認識が,自己原因から抽象されているということもできないのではないでしょうか。確かにいえるのは,それは神の本性essentiaの十全な観念idea adaequataであるとはいえないし,無限知性の本性の十全な観念であるとはいえないということだけだと思うのです。いい換えれば,僕たちは確かに第二種の認識cognitio secundi generisすなわち理性ratioによる認識によって,無限知性について確実に知り得ることがあるのであって,ただその本性を十全に認識することはできないというだけなのではないでしょうか。もっといえば,僕たちは無限知性の本性を十全に認識することはできないということも,第二種の認識によって確実に知り得るのだといっていいのだと思います。
ある点では,これは共通概念notiones communesの認識に類似しているといえます。人間は共通概念を十全に認識するのですが,それは第二部定理三七にあるように,個物res singularisの本性を構成することはないがゆえに共通概念といわれるのです。つまり僕たちの知性のうちには,それはある事物の本性の十全な観念ではないけれども,十全である思惟の様態cogitandi modiというのが存在するのです。僕たちによる無限知性の認識というのはこれと似たところがあるのであって,僕たちは無限知性について,ある種の事柄は十全に認識し得るのだけれども,その本性を十全に認識することはできないということなのだと僕は考えます。
これで僕の結論はすべてです。ただ,思惟の属性の間接無限様態については,ある予測があるので,それを最後に説明します。
振駒で久保九段の先手となり5筋位取り中飛車。後手の永瀬拓矢王座は急戦も含みに入れた駒組。
先手が歩を突いた局面。後手は少し考えて☖5四歩と突きました。もちろん先手としてもこの仕掛けがあるということは分かっていたでしょう。
☗同歩はこの一手なので☖8八角成☗同銀☖4五角までは一直線。
ここは分岐ですが☗3八玉と寄り☖6七角成を許して☗7七桂と跳ねました。
この手順は振飛車党らしい捌きを狙った手順といえそうです。ただ,振飛車の捌きは玉を美濃囲いに固く囲ってこそという一面があります。実戦の展開と感想戦の内容からすると,先手は玉を固くするのが難しく,すでにここで後手がリードしているのではないでしょうか。したがって分岐のところでは☗6八金として,☖2七角成の方を許すべきだったかもしれません。もしそれでもダメなら,第1図の☗7五歩がそもそも無理だったということになるでしょう。
3勝2敗で永瀬王座が防衛。第67期からの連覇で2期目の王座獲得。同時に九段への昇段を決めました。
僕たちには認識するcognoscereことができない無限知性ntellectus infinitusがあることを,僕たちは少なくとも絶対に無限な実体substantiaである神の観念idea Deiから導出するのです。もちろんそのとき,僕たちは絶対に無限な実体としての神を十全に認識することができるといえるのかということが問題としては残りますが,神あるいは神の思惟の属性Cogitationis attributumが,思惟の属性の直接無限様態である無限知性の原因causaであることには間違いないのですから,この種の無限知性についての認識cognitioが,原因から抽象された認識であるということはできないように思えます。同様に,神は自己原因causa suiですから,たとえ絶対に無限な実体としての神を十全に認識することが僕たちにはできないのだとしても,その神の認識が,自己原因から抽象されているということもできないのではないでしょうか。確かにいえるのは,それは神の本性essentiaの十全な観念idea adaequataであるとはいえないし,無限知性の本性の十全な観念であるとはいえないということだけだと思うのです。いい換えれば,僕たちは確かに第二種の認識cognitio secundi generisすなわち理性ratioによる認識によって,無限知性について確実に知り得ることがあるのであって,ただその本性を十全に認識することはできないというだけなのではないでしょうか。もっといえば,僕たちは無限知性の本性を十全に認識することはできないということも,第二種の認識によって確実に知り得るのだといっていいのだと思います。
ある点では,これは共通概念notiones communesの認識に類似しているといえます。人間は共通概念を十全に認識するのですが,それは第二部定理三七にあるように,個物res singularisの本性を構成することはないがゆえに共通概念といわれるのです。つまり僕たちの知性のうちには,それはある事物の本性の十全な観念ではないけれども,十全である思惟の様態cogitandi modiというのが存在するのです。僕たちによる無限知性の認識というのはこれと似たところがあるのであって,僕たちは無限知性について,ある種の事柄は十全に認識し得るのだけれども,その本性を十全に認識することはできないということなのだと僕は考えます。
これで僕の結論はすべてです。ただ,思惟の属性の間接無限様態については,ある予測があるので,それを最後に説明します。