スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

凱旋門賞&無限知性の認識

2020-10-05 19:08:39 | 海外競馬
 日本時間で昨日の深夜にパリロンシャン競馬場で行われた凱旋門賞GⅠ芝2400m。
                                        
 事前の想定から回避した馬も多かった上,出馬が確定した後に取り消した馬が4頭もいたので,出走は11頭。ディアドラは発馬のタイミングが合わず1馬身半くらいの不利。そのまま最後尾の内を2頭で併走する形。後ろを離して逃げていく馬がいなかったので,道中は先頭から7馬身くらいの差でした。最後の直線の入口で1頭分だけ外に。直線に入るとまた内に入って追い出されましたが,目立った伸びはみられず。勝ち馬からおよそ9馬身差の8着でした。
 相手関係が強かったですし,ディアドラにとっては適距離よりも長いと思われましたので,条件の面からも苦戦は免れないと思っていました。さらにこの馬の武器である末脚を生かすのには最悪の不良馬場になりましたので,この結果は仕方がないところだといえるでしょう。個人的にはもっと負けてもおかしくはないとみていたくらいで,結果はまったく伴いませんでしたが,レースの内容は悪くなかったと思います。

 人間の知性intellectusが無限知性intellectus infinitusを十全に認識するcognoscereことが可能であるかどうかということについても,僕は明確な答えを持ち合わせていません。論理的にいうと,それはできるともいえるしできないともいえると思っているからです。
 第二部公理五の意味から,人間が認識することができる属性attributumは,延長の属性Extensionis attributumと思惟の属性Cogitationis attributumのふたつです。第一部定義六から分かるように,属性というのはこのふたつだけでなく,無限に多くあるのであって,その無限に多くのinfinita属性のすべてが神Deusの本性essentiaを構成します。そして第一部定理一六により,それら無限に多くの属性のすべてから,無限に多くのもの,いい換えれば無限に多くの様態modiが発生するのです。さらに第二部定理七系は,神が思惟する力cogitandi potentiaは神が働く力actuali agendiと等しいといっています。したがって,無限に多くのそれぞれの属性から生じる無限に多くのものについて,その観念ideaが存在しなければなりません。ところで知性とは観念の総体のことをいうのですから,無限知性というのはそれらの観念の総体であるということになるでしょう。したがってそこには,そもそも人間に認識することができない無限に多くのものが含まれていることになります。もしもこの点を重視するのであれば,人間が無限知性を十全に認識することなどはそもそも不可能であるといわなければならないでしょう。
 この場合は,僕たちが認識している無限知性は,河合のいい方に倣うなら,不条理の先にあるものということになると思います。第二部定理一一系は,人間の精神mens humanaが神の無限知性の一部であることを示しています。これは明らかに,無限知性が部分に分割され,有限finitumであると把握されているといえます。河合は不条理の先には間接無限様態があるといっていますが,書簡十二で部分に分割され有限であるとみられるのは,無限様態modus infinitusなのですから,思惟の属性の直接無限様態である無限知性がこのように把握されてもおかしくありません。あの知性も無限知性の一部でこの知性も無限知性の一部であるという具合に,すべての知性あるいは知性の一部を構成する観念が無限知性の一部であるというように無際限に進めれば,無限知性の認識cognitioに至ってもおかしくない筈です。
コメント
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