3日に霧島ファクトリーガーデンで指された第42期女流王将戦三番勝負第一局。対戦成績は西山朋佳女流王将が1勝,室谷由紀女流三段が2勝。西山王将の1勝は新人王戦でのものです。
霧島酒造の社長による振駒は歩が4枚で西山女王の先手。先手の角頭歩戦法に後手はしばし考えていましたが四間飛車に。先手は三間飛車にして相振飛車になりました。

後手が歩を突いた局面。狙いはもちろん☖3六歩です。しかしこれは緩手で,ここを境に先手が優勢になりました。ここは☖8七銀と飛車取りに打つべきでした。
先手は二者択一。ひとつは☗6五歩と突いて飛車の横利きを通す手。もうひとつが☗5六銀と打って角に働き掛ける手。感想戦の様子だと本当は☗6五歩と突きたかったようですが,危険を伴うとみて☗5六銀と打ちました。
これに対して角を逃げるのは仕方がありませんが,実戦の☖3三角よりは☖4四角として5三に利かせた方ががよかったかもしれません。☗4五銀なら☖5五角で千日手を狙います。
先手はここで☗6五歩と突きました。

後手はここで☖8七銀と打ちましたが,これは俗にいう証文の出し遅れ。飛車取りは放置して☗6四歩からの攻め合いで先手が勝っています。
西山王将が先勝。第二局は13日の予定です。
第一部定理二二は,ある属性attributumの間接無限様態の原因causaはその属性の直接無限様態であるといっています。無限知性intellectus infinitusは思惟の属性Cogitationis attributumの直接無限様態ですから,もし人間の精神mens humanaが無限知性を十全に認識するcognoscereことができるということであれば,人間がそれを十全に認識することができることを示したのと同じ理屈によって,人間の精神は思惟の属性の間接無限様態についても十全に認識することができるということが帰結します。つまりこの場合は,なぜスピノザが思惟の属性の間接無限様態を明示しなかったのかという観点からなされた河合の考察も,論拠を失うことになります。僕は思惟の属性の間接無限様態が何であるかについては明確な答えを持ち合わせていませんし,河合の考察というのが説得力を有しているということも認めていますが,完全にそれに同調するわけではないのには,こうした事情が関係しているのです。
人間の精神は思惟の属性の直接無限様態である無限知性を,十全に認識することができるということも論理的にいえるし,十全には認識することができないということも論理的に示すことができるのは,それ自体でみれば大いなる矛盾であるといっていいでしょう。ですが僕は,この点に関してはさほどの矛盾が含まれているというようには考えていません。というのは,人間が無限知性を十全に認識することができるといわれている場合の無限知性と,人間には無限知性を十全に認識することができないといわれている場合の無限知性とでは,単に同じ無限知性という語で記述されているという一致点があるだけなのであって,実際にはそれぞれの場合で異なった思惟の様態cogitandi modiについてそれを無限知性といっているのだと考えているからです。いい換えれば,人間が無限知性を十全に認識することができるのかそれともできないのかということは,実は無限知性という語で示される思惟の様態を,どういったものであると判断するのかということの相違に帰着すると思うのです。そしてさらにこの相違は,後に述べるようなさらに別の相違へと還元されていきます。少し長くなりますが,せっかくの機会なので,この点についてもここで詳しく探求しておくこととします。
霧島酒造の社長による振駒は歩が4枚で西山女王の先手。先手の角頭歩戦法に後手はしばし考えていましたが四間飛車に。先手は三間飛車にして相振飛車になりました。

後手が歩を突いた局面。狙いはもちろん☖3六歩です。しかしこれは緩手で,ここを境に先手が優勢になりました。ここは☖8七銀と飛車取りに打つべきでした。
先手は二者択一。ひとつは☗6五歩と突いて飛車の横利きを通す手。もうひとつが☗5六銀と打って角に働き掛ける手。感想戦の様子だと本当は☗6五歩と突きたかったようですが,危険を伴うとみて☗5六銀と打ちました。
これに対して角を逃げるのは仕方がありませんが,実戦の☖3三角よりは☖4四角として5三に利かせた方ががよかったかもしれません。☗4五銀なら☖5五角で千日手を狙います。
先手はここで☗6五歩と突きました。

後手はここで☖8七銀と打ちましたが,これは俗にいう証文の出し遅れ。飛車取りは放置して☗6四歩からの攻め合いで先手が勝っています。
西山王将が先勝。第二局は13日の予定です。
第一部定理二二は,ある属性attributumの間接無限様態の原因causaはその属性の直接無限様態であるといっています。無限知性intellectus infinitusは思惟の属性Cogitationis attributumの直接無限様態ですから,もし人間の精神mens humanaが無限知性を十全に認識するcognoscereことができるということであれば,人間がそれを十全に認識することができることを示したのと同じ理屈によって,人間の精神は思惟の属性の間接無限様態についても十全に認識することができるということが帰結します。つまりこの場合は,なぜスピノザが思惟の属性の間接無限様態を明示しなかったのかという観点からなされた河合の考察も,論拠を失うことになります。僕は思惟の属性の間接無限様態が何であるかについては明確な答えを持ち合わせていませんし,河合の考察というのが説得力を有しているということも認めていますが,完全にそれに同調するわけではないのには,こうした事情が関係しているのです。
人間の精神は思惟の属性の直接無限様態である無限知性を,十全に認識することができるということも論理的にいえるし,十全には認識することができないということも論理的に示すことができるのは,それ自体でみれば大いなる矛盾であるといっていいでしょう。ですが僕は,この点に関してはさほどの矛盾が含まれているというようには考えていません。というのは,人間が無限知性を十全に認識することができるといわれている場合の無限知性と,人間には無限知性を十全に認識することができないといわれている場合の無限知性とでは,単に同じ無限知性という語で記述されているという一致点があるだけなのであって,実際にはそれぞれの場合で異なった思惟の様態cogitandi modiについてそれを無限知性といっているのだと考えているからです。いい換えれば,人間が無限知性を十全に認識することができるのかそれともできないのかということは,実は無限知性という語で示される思惟の様態を,どういったものであると判断するのかということの相違に帰着すると思うのです。そしてさらにこの相違は,後に述べるようなさらに別の相違へと還元されていきます。少し長くなりますが,せっかくの機会なので,この点についてもここで詳しく探求しておくこととします。