スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ケンタッキーダービー&解釈と見解

2019-05-05 19:10:45 | 海外競馬
 日本時間で今日の朝にアメリカのチャーチルダウンズ競馬場で行われたケンタッキーダービーGⅠダート2000m。
 発馬機の並びがコースに対して不自然のように見えました。画面の角度の影響だったかもしれませんし,コースのコーナーにバンクが設けられているため,あえてそのようにしていたのかもしれません。マスターフェンサーは15番からの発走で,15番と16番の間に開きがありました。発馬直後にその開いていた右の方に寄ってしまいました。そこから今度は最内の方に向い,最後尾を追走。最初は前と離れていた後方2番手の馬からも離れていましたが,徐々に隊列が凝縮。3コーナーに入るあたりでまだ最後尾でしたが,先頭との差は8馬身くらい。そのまま内目を回ってやはり最後尾で直線に。ここから最内に入ると,優勝争いに加わるということはありませんでしたがとてもよく伸び,7位入線。1位入線の馬が17着に降着となったので,勝ち馬から2馬身4分の1ほどの差の6着で確定しました。
 この馬は日本のオープンでも4着,2着でしたから,このメンバーに入ると苦戦は免れ得ないと思っていました。それでいえばこの差での6着は健闘だと思います。最後の直線に入るところで,逃げていた1位入線の馬が外に膨れたことがかえって幸いした面もありますが,直線の伸び脚はかなりのもので,これだけ脚が残っていたのであれば,ちょっともったいないレースをしてしまったという印象さえ抱かされました。

 僕のように解釈すれば,スピノザはものの形相的本性essentia formalisが,観念対象ideatumとしてあるのではなく観念ideaとしてあるということをいわんとしているのであり,真理veritasについては観念としてあるといっているのですから,真理は観念されるものideatumとしてではなく観念そのものとしてある,つまり知性intellectusを離れた形相的有esse formaleとしてあるのではなく,知性のうちに客観的有esse objectivumとしてあるという僕の見解と齟齬を来すものとはならないでしょう。ただし,前にもいったように,スピノザはこの部分で真理の何たるかとか,形相的本性とはどういう概念notioであるのかといったことを説明しようとは企ててはいません。僕は備考Scholiumのこの部分をこのように解釈しますが,このように解釈するがゆえに真理は客観的有としてのみあるという見解を有するに至るのではなく,真理は客観的有としてのみあるという見解を抱いているがゆえにこの部分をこのように解釈するのです。真理が客観的有としてのみあるという僕の見解の理由は,第二部定理四三の方にあるのです。スピノザの企てからすれば,この部分の解釈から真理とは何でありまた形相的本性とは何であるのかということを結論するのは好ましくないだろうと僕は考えます。なのにこの部分だけを特別に詳しく探求したのは,この部分はスピノザの見解とは違った見解について説明しているからであって,それ以上の理由はありません。
                                   
 いずれにせよ,僕の見解は僕の見解であって,異論はあるでしょうし,それに対して反論はしないというのも何度かいっている通りです。ただ,ものの真理が知性の外に形相的有としてあると主張するにしても,それがそのものの形相的本性であるという主張以外は僕には認められません。他面からいえばそれは観念の対象となるものであるということを前提しない場合には,僕はそういう見解を受け入れません。ですからもしそのような見解があるのであれば,それに対しては反論もします。
 では真理に関連した考察はここまでとして,また数学関連の考察に戻ります。
 僕はスピノザにとって数学の意義として大きかったのは,それが真理を獲得する方法を僕たちに教えてくれるという点にあったのではないかと推測しました。
コメント
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