スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

農林水産大臣賞典兵庫チャンピオンシップ&観念と対象

2019-05-03 19:00:01 | 地方競馬
 昨日の第20回兵庫チャンピオンシップ
 ゴールドラグーン,クリソベリル,ダイシンインディーの3頭が前に行く構え。ゴールドラグーンが先手を奪い,ダイシンインディーが2番手。控えたクリソベリルが3番手という隊列に落ち着きましたが,そこまでに競り合ったため1周目の向正面では3馬身差の4番手にヴァイトブリック。5馬身差の5番手にメスキータで6番手がナラ。2馬身差でバンローズキングスとインペルフェット。2馬身差でエナキョウ。そしてベストプレゼント。4馬身差でクウミリマ。6馬身差の最後尾にフィエールデエスと,とても縦に長い隊列。正面に入ってから凝縮してきました。
 2周目の向正面では2番手のダイシンインディーが手綱を動かしてついていく形に。3コーナーでは外にクリソベリルが上がって雁行。ここでダイシンインディーは後退。クリソベルを目標に外から追ってきたのがヴァイトブリックで,後退するダイシンインディーを捌いて内から進出してきたのがバンローズキングス。直線の入口ではクリソベリルが先頭。ヴァイトブリックも懸命に追おうとしましたが差は開き,クリソベリルが優勝。ヴァイトブリックが5馬身差で2着。内から2頭目を伸びたバンローズキングスが2馬身半差で3着。
 優勝したクリソベリルは重賞初制覇。昨年9月の新馬を7馬身差で勝つと,2戦目となった3月の500万も7馬身差の圧勝。2着馬にはオープンで2着の実績がありましたが,こちらの方が強い可能性はあるだろうとみていました。最後の600mを36秒台で駆け抜け大きな差をつけましたので,こちらの方が強いどころか圧倒的な能力差があったみていいと思います。大レースも狙える馬でしょうし,長期にわたっての活躍を期待していいと思います。父はゴールドアリュール。母の父はエルコンドルパサー。祖母はキャサリーンパー。6つ上の全兄が2013年にジャパンダートダービー,2014年に日本テレビ盃,2015年にダイオライト記念,2016年にダイオライト記念,2017年にダイオライト記念を勝ったクリソライト。5つ上の半姉が2016年のJRA賞の最優秀4歳以上牝馬のマリアライト。4つ上の半兄には2015年に神戸新聞杯を勝ったリアファル。Chrysoberylは金緑玉。
                                        
 騎乗したクリストフ・ルメール騎手と管理している音無秀孝調教師は兵庫チャンピオンシップ初勝利。

 結局のところ,知性intellectusが神Deusの本性essentiaに属すると主張する場合は,観念ideaは観念されるものideatumより本性の上で先立つ形で存在しなければなりません。この事態についてスピノザは,真理veritasは神の本性に属する知性のうちにそのようにあるがゆえにそのようにあるといっているのです。他面からいえば,観念されるものがどのようなものであるかとは関係なしに,真理は決定されているといっているのです。そしてこのとき,この部分においては真理がものの形相的本性essentia formalisと並びたてられています。ということは,この部分ではスピノザは自身の哲学的結論とは異なったことをいっているのですから,スピノザ自身は真理は観念されるものの形相的本性と無関係にそのようにあるとみなしているのではなく,ものの形相的本性があるといわれるのと同じ意味で,真理はあるとみなしているのだと解釈することが可能でしょう。よってこのような解釈をすれば,少なくともものには形相的本性があるといわれるのと同じ仕方でそのものの真理はあると解するべきだといえます。いい換えれば,真理は客観的有esse objectivumすなわち観念としてのみあるというべきではなく,ものの形相的本性と真理は同じものであると解して差し支えないことになります。
 実際に上述したような解釈が可能であるということは僕も認めます。ですが僕は立場としては,真理は客観的有としてのみあるのであって,形相的有esse formaleとして真理があるという解釈は採用しません。そしてこの部分は,おそらく僕のような解釈も許容するだろうと考えます。
 まず僕が注意しておきたいのは,スピノザのこの部分の主旨は,形相的本性とは何でありまた真理とは何であるということを示すことを主眼とはしていないということです。ですから本来はこの部分を抽出してこのことを考察すること自体が的外れであるかもしれません。だから僕は解釈については争いませんし,真理と形相的本性を同一のものとみなし,真理が知性を離れてあるという主張にも反論はしません。ただしその場合の真理は,ものの形相的本性でなければならないということだけは譲れないです。
 ではこの部分の主眼はどこにあるのかといえば,観念とその対象ideatumの関係性です。
コメント
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