スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

第三部諸感情の定義一一説明&父との比較

2018-09-26 19:03:27 | 哲学
 第三部諸感情の定義一一には説明が付されていて,スピノザは次のようにいっています。
                                
 「人がその嘲弄するものを憎んでもいるということを我々は仮定しているのであるから,その帰結として,この喜びは基礎の固いものではないということになる」。
 簡単にいえば,嘲弄という喜びlaetitiaは,基礎が固い喜びではないということです。スピノザは憎んでいるものが悲しんでいると表象するimaginari人は喜びを感じるとした第三部定理二三の直後の備考Scholiumで,しかしその喜びは基礎が固くないといっていますが,嘲弄の場合にもこれと同じことが当て嵌まるのです。
 その定義Definitioから直ちに理解できるように,嘲弄という喜びは僕たちが何かを憎んでいないのなら発生することがない喜びです。軽蔑していることが憎んでいるものの中にあると表象することによって感じる喜びが嘲弄といわれるのですから,仮にあるものに軽蔑すべき点が含まれていると表象したとしても,その人間を憎んでいるのでなければ嘲弄には至らないからです。
 第三部諸感情の定義七から分かるように,憎しみodiumというのは悲しみtristitiaの一種です。これに対して嘲弄は喜びなので,嘲弄を感じている人間は,基本感情affectus primariiのうち喜びと悲しみを同時に感じている人間であるということになります。しかるに喜びと悲しみは反対感情です。まずこのことから,嘲弄が基礎が固くない喜びであることが理解できます。
 同時に,嘲弄は憎んでいるものについて軽蔑すべき点をを表象することによって生じる喜びです。つまり単に喜びと悲しみという反対感情を感じているというだけではなく,相反する感情を感じているのだということができます。Aを憎みつつ,Aに軽蔑すべき点を見出して嘲弄するのは,Aによって悲しみと喜びの両方に刺激されていることになるからです。
 つまり嘲弄とは,一種の心情の動揺animi fluctuatioであるということができます。そのゆえに,喜びとして固い基礎を有することができないといえることになるのです。

 母が戻りましたので僕たちは入院支援センターに向いました。これは必要な書類を受け取るためです。すぐに受け取ることができましたので,7階の病室に向いました。
 入院中は食事は提供されますが,この日の昼食は用意することができないとのことでした。母は食欲が湧かなかったこともあり,院内の食堂で食事を摂る気にはなれませんでした。そこで僕はやはり院内のコンビニエンスストアで,母が食べられそうなものを見繕って買い,母にそれを渡した後,ひとりで食堂で食事をしました。僕もコンビニエンスストアの弁当などを買って食べてもよかった,というかそうしたいところではありましたが,この病室ではそれは不可能だったのです。食事をしたのが午後1時半ごろ。また病室に戻り,母の様子を少し見てから僕は帰りました。帰宅したのは午後2時45分でした。
 この日はピアノの調律が予定されていました。なので伯母には家で待機してもらっていたのですが,僕が帰ったときには調律はすでに終わっていました。また荷物を持っていかなければならないから帰ってきたのですが,調律が終っていましたから,荷物は伯母が持っていってくれることになりました。
 5月31日,木曜日。母の見舞いに行ったところ,現在の状況で緩和病棟に入院することは難しいと伝えられたとのことでした。実際のところ,父が抗癌剤による治療をすることさえできなくなって最後に退院してきたときの状態と比較したら,このときの母はよほど元気であったといえます。ですから,痛みを抑えることができれば退院してくる可能性があるということは,僕も理解しました。実際に退院してくるようなら家で生活するための準備も必要とされるでしょう。そうなる可能性があるという心構えができたというような意味に理解して下さい。
 以前に処方された薬剤のうち,鎮痛剤のオプソは残っていたものを病室に持っていってありました。それは飲んでもいいとのことでしたから,この日は母は2回飲んだようです。気持ちの上でいえば,家にいるよりは病院にいる方が,母は安心感は強かったようです。そのためか,痛みも痒みも家より少ないとのことでした。
コメント
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