スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王座戦&スピノザのしるし

2015-10-07 19:48:03 | 将棋
 仙台で指された昨日の第63期王座戦五番勝負第四局。
 佐藤天彦八段の先手で羽生善治王座の一手損角換り1-Ⅰ。後手の早繰り銀に先手が4筋を突き捨ててからの腰掛銀で,早い段階から戦いになりました。
                         
 先手が7七の銀を引いた局面。後手は△4八角成と金の方を取り,▲同飛に△4四銀と受けました。後手が▲同角と応じたところで△3七歩成。▲4六飛と逃げるのは仕方がないところ。△4四金と角を取りました。
                         
 ここでは▲5三桂成とすべきだったようですが,単純に▲7一角と打ちました。すかさず△4五金と桂馬を外しました。△3七歩成▲4六飛の交換が入っていたのでこれが飛車取りに。▲同飛に△7二飛と逃げました。
 これで角は行き場所がないので何らかの攻めを繋げなければいけません。先手は▲6四歩にそれを託しました。△7一飛と角を取った手に対して▲4一銀。ですが△6九金という王手がありました。
                         
 取ると王手飛車が掛かるので▲8八玉と逃げましたが,△4四歩が取ればまた王手飛車。結果的に4一の銀を取られる展開になりました。打った角も銀も取られているわけですから,何らかの見落としが先手にはあったものと推察します。
 羽生王座が勝って2勝2敗。第五局は26日です。

 スピノザは十全な観念と混乱した観念の関係を,有と無の関係として規定します。表象像は混乱した観念です。ですから真理性の「しるし」について何らかの論証を与えようとしても,表象像を利用することはできません。真理が有であることはいうまでもないですから,そうした説明をする場合には,有であるものを無によって説明することになってしまうからです。これがそれ自体で不条理であることは明白でしょう。ですから「しるし」というものをあくまでも外的特徴としてしかアルベルトが判断できなかったと仮定したら,アルベルトを十分に説得できるだけの説明はスピノザにはなかったといえると思います。
 とはいえ,スピノザが十全な観念の十全性すなわち真理性について,真理を知っている者はその真理を疑うことはできないということだけで済ませていたとは僕は考えていないのです。外的な意味では何らの「しるし」はないとしても,観念の形相がいかなるものかを説明することは,その「しるし」の代替になり得るとみなすことは不可能ではないと僕は考えるからです。
 第二部定理七系の意味とか第二部定理三二というのは,スピノザの哲学の反対者であったとしても,肯定せざるを得ない内容だと思います。とくにアルベルトのように,カトリックという神学の観点からの反対者の場合に,これはとくに妥当すると思うのです。このとき,スピノザの哲学では,Xの十全な観念の形相は,その観念がどんな知性の一部を構成する場合にも一致するということが強調されています。とくにここで問題になるのは人間の知性の場合ですが,第二部定理一一系の具体的意味にはそのことが含まれているからです。すなわち,人間の精神が神の無限知性の一部であるなら,人間の精神を構成するXの十全な観念は,無限知性の一部を構成するXの十全な観念と一致していることになります。こうしたことがすべての十全な観念に妥当します。つまり人間の知性の一部の十全な観念と無限知性の一部の十全な観念は同一です。それは神のうちにある十全な観念と同一であるといっているのと同じです。これはスピノザ流の「しるし」といえないでしょうか。
コメント
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