スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

加古川青流戦&反対の表象

2015-10-24 19:37:08 | 将棋
 加古川市立青少年女性センターで指された第5回加古川青流戦決勝三番勝負第一局。公式戦初対局。
 加古川市長の振駒で増田康宏四段の先手になり角換り相腰掛銀。稲葉聡アマの方が△3五歩~△2四銀と仕掛けて受けに回る展開。先手の攻めが細いかにみえましたが,後手の応じ方に疑問があったようで激戦になりました。
                         
 ▲5六桂と打たれたので逆側の歩を突いて逃げ道を作った局面。後手は攻め合いは望めず,受けきるというのも難しくなっていて,勝つには入玉するほかなくなっています。
 先手は▲4三銀と金に狙いをつけていきました。後手は△5ニ歩と角筋の方を遮断。先手は▲同角成△同飛▲同銀不成の飛車角交換を選択しました。
 そこで△1五銀の飛車取り。ただ上に逃げ出したいところであり,自玉を狭めてしまう危険性も伴いますので,命運を託すような一手であったと思います。先手も逃げている場合ではありませんから▲同飛△同歩と切って▲1二飛と打ち込みました。
 これは詰めろで△5三馬。ただ受けただけでなく,上部を広げた意味もあります。ですが▲3六歩と打って△同とさせてから▲3二銀と打ったのがうまい手順で,実質的な決め手でなかったかと思います。
 △2四金寄と受けたものの▲4三銀右成△同馬▲同銀成△同王と清算して▲6三角。これで後手玉は捕まったようです。
                        
 増田四段が先勝。第二局は明日の午前に指されます。

 ステノが表象したほどカトリックが優越的なものではないということ,正確にいうならカトリックがそこまで優越的ではないと反対に表象され得るものであるということは,以下の点から明らかにできます。
 元々はキリスト教といえばカトリックでした。そこからカトリックが異端とみなす,プロテスタントのような宗派が分派していったのです。もしもカトリックがその教義によって信者を神聖な生活に必然的に導くのであれば,このような分裂は生じようがありません。つまりプロテスタントのような,分派した大きなキリスト教の宗派がカトリックとは別に現実的に存在するということ自体が,ステノがいう信仰の確実性は何ら確実なものではないということの証明になるのです。また,ステノはカトリックに帰依することによって悪徳な生活を送っていた者が敬虔になったという事実について語っていますが,放蕩にふけるすべての人物がカトリックによってそう変化したわけではないでしょう。ステノは明らかにそういう事実から目を逸らしていたと思われます。
 宗教裁判のような暴力装置がカトリックに必要とされたことも,カトリックがその教義だけで神聖な生活を保証することができなかったことの証拠になります。教義だけでだれもが神聖になれるのであれば,単に教義に服従することだけを求めればよいのであり,ライプニッツがいっていた体罰あるいはそれに対する恐怖心で服従させる必要はないからです。宗教裁判が必要だったのは,カトリックの聖書解釈を教えるだけでは教会を維持できなかったからであり,それは教会が信仰の確実性とは別の力を必要としたということです。
 おそらく書簡六十七も証拠になります。アルベルトはたぶん口汚いことばで地獄への恐怖を煽られたからカトリックに改宗したのであり,カトリック教会の聖書解釈に,ステノが抱いたような確信を感じて改宗したのではありません。おそらくこのような方法でカトリックに帰依した信者がそれなりに存在した筈です。それによって敬虔になり得たことを僕は否定しませんが,このような流儀はステノがいうところの信仰の確実性とは程遠かったに違いありません。
コメント
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