スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

水都大垣杯&フッデからの書簡

2015-10-27 19:11:20 | 競輪
 大垣記念の決勝。並びは桜井-新山の北日本,平原-小林の関東,原田-友定の四国中国で深谷と藤木と山田は単騎。
 単騎が3人もいたので牽制になるのではないかと思っていましたがすぐに友定がスタートを取って原田の前受け。3番手に平原,5番手に桜井で7番手以下も藤木,山田,深谷の順で早い段階で隊列が定まりました。残り3周のバックで桜井が動き,藤木はこれに乗って3人で原田を叩くと,ホームで平原が動き,山田はこちらに。今度は引いた原田が動き,最後にまた桜井が叩き返しにいくという目まぐるしい展開に。後方で様子を窺っていた深谷がうまく最後に動いた桜井ラインに乗る形になり打鐘。深谷の後ろは内の原田と外の山田で併走。そして友定,藤木と続いて平原は8番手に。ホームから平原が仕掛けていきましたが,バックで深谷が先捲りを打つ形に。これを平原-小林で追う形になり,この3人が後ろをぶっちぎりました。直線も深谷がよく粘って優勝。追った平原が半車身差で2着。深谷と平原の間を割ろうとした小林はゴール前でスピードが鈍り半車身差で3着。
                         
 優勝した愛知の深谷知広選手は昨年8月の豊橋記念以来となる記念競輪9勝目。大垣記念は初優勝。レースはあまりうまくない選手なので,力はあっても単騎での戦いはどうかという不安がありましたが,うまく3番手を取ることができました。力では互角かそれ以上の平原が後方に置かれる形になって絶好の展開。最後は差を詰められましたが,平原は深谷のスピードを途中からはもらう形でしたので,むしろよく粘ったと考えていいでしょう。ようやく今年の初優勝というように,苦戦は続けていますが,また圧倒的な力を誇示する時期が来てもおかしくないと思います。

 岩波文庫版の『スピノザ往復書簡集』では,フッデがスピノザに宛てた書簡が遺稿集に掲載されなかったのは,スピノザと交際があったことが知られるのはアムステルダム市長のフッデにとって不利になるだろうという編集者の配慮であったと解説されています。『人と思想 スピノザ』では,フッデにとってスピノザは思想上の要注意人物であったので,その書簡が遺稿集に掲載されないように取り返したのだとされています。ひどく食い違っているようですが,僕の推測ではどちらも正しい見解です。
 スピノザの遺稿は死亡時の宿主のスペイクによって適切に処理されました。その時点で遺稿は,シュラーをはじめとする編集者たちだけが独占して所有していたと考えるべきでしょう。ですからフッデが自分の手紙についてどんな心配をしようと,自身の手でそれを何とかすることはできなかったと思います。
 フッデとスピノザはきわめて親しい関係にあったと判断してよいと思われます。ですからスピノザが信頼し,死後に遺稿集の編纂に関わった人たちの何人かとも,たぶんフッデは面識があったと思います。フッデはアムステルダム市長で,遺稿集の編纂もアムステルダムで行われていました。なのでフッデはそのうちのだれかに依頼し,自分がスピノザに宛てた手紙を返却するように求めることはできたと思われます。このような意味において,フッデが手紙を取り戻すことは,工藤がいうように可能であったと僕は考えます。
 おそらく実際にそのような依頼があったのでしょう。そこで編集者たちはその求めに応じて,フッデがスピノザに送った手紙については,フッデに返却したのではないでしょうか。その理由は,畠中がいうように,編集者たちがフッデの立場に配慮を示したからではないかと思います。つまり僕の推測では,フッデが書簡を取り返したといっても,そこにあったのはフッデの悪意ではなく,編集者の善意であったことになります。ただし,この点については,後に示すような,別の見方も可能だと思っています。
 この推測からすると,フッデはスピノザの遺稿集が出版のために編纂されているのを知っていた可能性が高くなります。
コメント
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