スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

日本テレビ盃&汎神論批判

2015-10-08 19:14:18 | 地方競馬
 昨晩の第62回日本テレビ盃
 好発はサイモンロードとサミットストーンでしたが,コパノリッキーが交わして先頭に立つとクリソライトが楽に逃がすまいとマークしていき,この2頭が抜け出す展開に。離れた3番手に内のサミットストーンと外のラヴィアンクレールが併走。また離れた5番手にサイモンロード。発走後の直線ではインの苦しそうな位置にいたサウンドトゥルーが向正面で抜け出し,サイモンロードの前の5番手まで上がりました。最初の800mは47秒2のハイペース。
 3コーナーを回るとサウンドトゥルーが捲るように追い上げていき,直線の入口では前の2頭を射程圏内の単独3番手。直線に入ると逃げたコパノリッキーは力尽き,マークしていたクリソライトが先頭に。しかし前半はやや無理をしていたため,追ってきたサウンドトゥルーの差しを凌ぐだけの余力は残ってなく,あっさりと抜け出したサウンドトゥルーが優勝。3馬身差の2着にクリソライト。7馬身も離されましたがコパノリッキーが3着は死守。
 優勝したサウンドトゥルーは重賞初勝利。前走でオープンを勝っていましたし,それまでも大きく崩れたことはなく,はっきりとした底を見せてはいなかったので,実績は下位でもチャンスはあるとみられた馬。このレースは明らかに展開の利がありましたが,末脚はこのレベルでも通用すると判明しましたから,展開次第で大レースに手が届いてもおかしくはないでしょう。1600mよりは1800mの方がよいと思われますので,2000mでも対応は可能と思います。母の父はフジキセキ
 騎乗した大野拓弥騎手,管理している高木登調教師は日本テレビ盃初勝利。

 人間の知性のうちにあるXの十全な観念の形相が,神の無限知性のうちにあるXの観念と一致するというスピノザの「しるし」の与え方は,人間が事物を認識する場合の主体の排除という別の問題を発生させます。ですが、ここではこのことは問題にしません。これは人間Aの精神とは,Aの精神という思惟の様態的変状様態化した神であるという種の汎神論から発生します。けれどもスピノザが『神学・政治論』で汎神論的視点を明瞭にしたとき,批判の対象になったのは,このような思惟的な意味における汎神論ではなかったと僕は考えているからです。
                       
 デカルトの哲学では,物体的実体は神とは異なる実体と規定されていますが,思惟的実体と神は同一視されています。それはデカルトが,神は延長するものではないが思惟するものではあると考えていたからです。そしてデカルトがそう考えることができたのは,その考え方に危険なところがなかったからです。つまり神が思惟するものであるということは,神学が教えるところと乖離してなかったといえます。一方,人間が思惟するものであるということを否定することができる人間は存在し得ません。ですから人間の思惟作用が神の思惟作用の分有であるという主旨のスピノザの汎神論は,おそらくアルベルトステノからも,それ自体では批判されなければならない内容ではなかったと僕は考えます。
 スピノザの汎神論が問題にされたのは,これを延長の属性にも該当させたからでしょう。つまり汎神論批判の本来の意図は,第二部定理二の批判にあったと僕は理解します。いい換えれば第二部定理一は批判の対象にはなり得ないのであって,だからこの意味で汎神論が展開されたとしても,それをそれ自体で批判することはできなかった筈だと思うのです。
 だからといって,スピノザの「しるし」をアルベルトやステノが受け入れられたというわけではありません。かれらにとって神が神である「しるし」は,人間の精神のうちにある神の観念が神自身のうちにある神の観念と一致するという点に存するのではなく,あくまでも奇蹟に代表されるような,その観念以外の特徴に求められていたからです。
コメント
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