スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

啓蒙の不可能性②&真理の理解

2015-10-03 19:13:16 | 哲学
 スピノザの哲学における啓蒙の可能性は,認識論の観点からすれば事実上の不可能性を意味しているのではないかということを啓蒙の不可能性①では示しました。そしてもう一点,その可能性が共通概念に依拠しているということも,事実上の不可能性を意味することになるのではないかと僕は考えています。
                         
 第二部定理三八系は,現実的に存在するすべての人間の精神のうちに,同一の共通概念が存在することを示します。ですが,この共通概念から何を帰結させられるのかといえば,それはたかが知れているだろうと思われます。いい換えれば,この共通概念を根拠として人が他人を啓蒙できたとしても,それはだれにでも知られ得ることなのですから,啓蒙主義の真の意味において啓蒙したということにはならないだろうと思うのです。
 逆にいえば,真の意味で啓蒙することの根拠となるのは,第二部定理三九の,一般性の低い共通概念の方でなければなりません。最適なのはAとBだけに共通する,きわめて一般性の低い共通概念でしょう。なぜならそれに依拠すれば,AはBだけを,あるいはBはAだけを啓蒙することが可能なのであり,それが真の意味での啓蒙の最も原理的な形態だと思われるからです。
 ところが,一般性の低い共通概念は,この場合でいえば,実際にAとBとが関係することによってAとBの精神のうちに生じる概念であり,仮定からそれ以外の様式では発生し得ない概念なのです。だから,AがBを啓蒙する場合に,Bと何らかの関係を構築する以前の段階で,Aの精神のうちにはその概念が存在し得ません。いい換えれば,AがこのことについてBを啓蒙するということを,実際の関係構築以前に意図することができないのです。つまりこれが意味するのは,実際にはAはBを啓蒙することはできないということでしかないと僕は考えます。同じように,BもAを啓蒙することは不可能です。
 何らかの関係構築が前提されて,共通概念は発生します。つまり共通概念は「教える」と「教わる」の関係から発生するものではありません。共通概念で啓蒙することが不可能であるとは,端的にいえばそういう意味です。

 書簡六十七では,なぜスピノザが説く哲学が最上のものであるといえるのかをアルベルトが問うています。この問い自体はアルベルトにも射返されるものです。なぜならアルベルトが示しているような理由でスピノザが自身の哲学の正当性を証明できないのなら,アルベルトもまたカトリックが最上の宗教であることを証明できないような内容になっているからです。アルベルトにとって有利な点は,スピノザの哲学が多く見積もってもデカルトから始まる新しいものであるのに対し,カトリックにはずっと前からの歴史があるということでしかありません。ですがそれが少なくともスピノザにとって,何らの説得力をもたないことはいうまでもありません。
 スピノザはこの問いに対しては,哲学的観点から解答を与えています。おそらくアルベルトへの返信の中で,哲学的価値が最も高いのがこの部分であると思われます。
 まずスピノザは,自分が最上の哲学を発見したとは自負していないと書いています。スピノザに分かっていたのは,自分の哲学が真理であることを理解しているということだけでした。そしてなぜそれを自分が知り得るのかといえば,アルベルトが平面上の三角形の内角の和が180度であることを知っているのと同一の仕方で知っているのだと補足しています。
 ここでスピノザは,真理の規範が真理それ自身にあることを主張しているのです。『神学・政治論』における,聖書は服従を説き,哲学は真理を明かすというスピノザの考え方は,カトリックはもとより,プロテスタントにも,フェルトホイゼンのようなデカルト主義者にも容易に受け入れることができる内容ではなかったと思います。カトリックの場合だと,真理は教会の中にあります。だからこの時代でいえば,天動説が真理であり地動説は誤謬でした。よって地動説を唱える科学者が異端と告発されたのです。なのでこのような観点からは,スピノザがいう真理の規範というのは,まったく理解不能であったと思います。
 さらにスピノザは,同じ文脈で第二部定理四三も示していることになりますが,これだけでは十分ではないと考えていたかもしれません。
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