スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

Kの赤面&狂信的

2015-10-10 19:19:33 | 歌・小説
 を開けてお嬢さんへの恋を先生に告白した日,同じ家で暮らしていた4人での夕食時に,黙りこくって食べている理由をお嬢さんに尋ねられたKが赤面する場面があります。『大人になれなかった先生』では,この赤面が,お嬢さんへの恋について黙して考えていたKが先生の視線を感じたからだと説明されています。当該部分のテクストは,先生の目の動きに言及されているので,これは妥当な解釈だと僕は考えます。ですが石原がその根拠に,人間は羞恥心を共有できる人間の前でだけ赤面するという一般論を用いるのは,僕には納得できません。
                         
 池の端での三四郎の赤面はおそらく蓮実重彦の夏目漱石論に示されているように,過去の恥辱の三四郎の想起によるものです。このとき三四郎の傍にはだれもいませんでした。つまりこのテクストが示しているのは,三四郎は他人の視線などは関係なしに,恥辱を想起するなり知覚するなりした場合に顔を赤らめる人間であったということです。『こころ』のテクストもこれと同じように解釈するべきだと僕は考えます。
 寺の次男として産まれたKは,おそらくそれ自体が原因となって,ひどく禁欲的な,自我に閉じこもることを好む人間として成長していきました。先生との部屋の間に襖を立てて,広い部屋にふたりでいることより,狭い部屋でひとりきりになることを選択したのはその象徴といってよいでしょう。このようなKの人間性からしたら,他人が自分のことをどのように認識するのかといったことにはいっかな興味がなかった筈です。いい換えれば,他人の視線などを気にするような人間ではなかった筈なのです。
 ところがこの晩,Kは明らかに先生の視線を感じることによって赤面しました。つまりこのテクストが意味しているのは,Kの内面に明らかな変化が生じたということでしょう。
 小説のテクストを読解するために一般論を利用するということ自体を僕は否定しません。ですがこのKの赤面に関するテクストは,『こころ』の中のそれまでのKに関連するテクストとの比較で読解するべきだと考えます。

 ステノもまた神の「しるし」を奇蹟に代表されるような外的な規準によって保証されるものと認識していた点では,アルベルトと何ら変わるところはなかったと僕は解しています。ですがステノからスピノザに送られた手紙,『スピノザ往復書簡集』の書簡六十七の二は,アルベルトからの書簡六十七と比べるなら,よほど論評に値する多くの箇所を含んでいると僕は考えています。
 『宮廷人と異端者』では,ステノは狂信的なカトリック改宗者と紹介されています。スチュアートがどのような意味を込めて狂信的といっているのかは,僕には知る由もありません。ただ,単に僕がその語から受けるイメージだけでいえば,アルベルトは狂信的であったといわれ得ると思いますが,ステノに対しての形容としてはあまり相応しくないのではないかと感じます。ステノはアルベルトがしたようにスピノザのことを口汚く罵るようなことはしていません。それどころか,部分的にいえば,スピノザの立場を尊重しているのではないかと思えるような文面を残しているからです。
 アルベルトが間違いなくそうであったように,ステノもまた,一時的にスピノザの哲学的門弟であったと僕は推定します。少なくともオランダに滞在していた時代のステノとスピノザとの間で,哲学的対話があったことは確実視できます。そしてステノには,スピノザの哲学を理解するだけの明晰な頭脳があったことも,僕は間違いのないことだと思っています。カトリックの信仰者としてのステノは,スピノザの思想を否定する内容の書簡を送ったのですが,それでもスピノザの理解者であったという点においては,同時代のライプニッツや,後の時代のヤコービと同じように解してよいものと考えます。書簡において部分的にはステノがスピノザの哲学的立場を尊重することができたのは,このような理由からだったというのが僕の考え方です。他面からいえば,スピノザに対して罵詈雑言だけしか浴びせかけることができなかったアルベルトは,スピノザの哲学の理解者などではなかったし,理解するだけの頭脳にも欠けていたと判断します。だからアルベルトは狂信的といい得ると思うのです。
コメント
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