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前回の記事の続きになりますが、新横浜の「花風社創立18年記念おしゃべり会」では、”才能と資質”ということが出てきました。
これから書くことが才能に分類されるのか、資質に分類されるのかは、読み手の方に委ねるとして、今回は「才能」について書いてみたいと思います。
先日、小学校時代の友だちと会った時に「小暮くんは才能があるんだから良いじゃない」と言われ、うーん、世間で言う才能の意味って、そういうことなんだなあと感じました。
私がどうかは別にして、才能が変にあっても、それで飯が食えるとは限らないし、食えたとしてもギリギリの生活を送らなければならなかったりするわけだしね。
たしかに私はその道で何とか糊口を凌ぐ幸いに恵まれました(”糊口を凌ぐ”と”幸い”は反対語というとこがミソ)。
ただ、サラリーマン時代もあったわけで、どのみち今の方法で生きていくしか道はなかったかなとも思います。
若い頃は自分は天才だと思う時もありましたが(この道で飯を食う人は、ほぼ例外なくそうです)、今は自分が天才かどうかにはあまり興味ありません。
もちろん、人に描けない絵を描ける自負はありますが、 そういう人はそう多くないにせよ、けっこうこの世の中にいます。
大したことでもあるし、大したことではないかもしれない。
才能はある程度あると思いますが、もっと優れた人は世にいくらでもいるというところでしょうか。ともかくも「代わりがいない」人間にはなりたいと思っています。
でも、例えばモーツアルトとかアインシュタインみたいな天才は、本人はかえって辛いものだと思います。
他人からは理解されないし、そういう人は当然凸凹も激しいから、人が簡単にできることもできなくて誤解されることも多い。
それに才能というのは、その人の目立つところに集中しますが、実はトータルな肉体や人格、精神を含めたすべてを指すと思います。
たとえば生まれつき体が大きい、背が高い、逆に小さいというのも才能(これは資質になるか?)であります。
力士であれば、体が大きいのは立派な才能(やはり資質か)になりますし、逆に小兵であるのも、場内を沸かせる才能になり得ます。
いずれにしても人間というのは、持って生まれたもので勝負しないといけない。
美人で得することもあれば、不幸になる人もいます。
コメディアンであれば不美人をネタに成功する人もいる。
だから最近はとみに思うのですが、「才能がある」なんてことは、そんなに取り立てて自慢すべきことでもないし、逆に卑下することでもない(あ、卑下するというのは、才能の反面に持ってるマイナス面のことを指してますが)。
やはり大切なことは「精進」、あるいは「稽古」でないかと思うこの頃です。
よく「結果がすべて」「人は結果しか見ない」という人もいますが、それなら結果を出すためなら何をやっても良いのかという話にもなります。
社会というのは、ある程度のお金がないと生きていけませんから、良い結果を出して、それ相応の生活を送ることは大切ですが、それも精進なしにはあり得ない話です。
神田橋先生は最近「ぼくは最近、治療がますます上手になってねえ」とおっしゃっているそうですが、それはきっと本当でしょう。それは先生のたゆまぬ精進の賜物であるのです。
先生を引き合いに出すのは甚だ不遜ではありますが、私も最近絵がとっても上手になりました。本当ですよ、先日も絵をお渡ししたクライアントは、感激して泣いていました。
しかしながら葛飾北斎が「神奈川沖波裏」を描いたのは72歳。
しかも江戸末期の72歳です。
いやいや、いかんいかん。自慢してるヒマがあったら精進せんといけません。
続きはまた、いずれ。
前回の記事の続きになりますが、新横浜の「花風社創立18年記念おしゃべり会」では、”才能と資質”ということが出てきました。
これから書くことが才能に分類されるのか、資質に分類されるのかは、読み手の方に委ねるとして、今回は「才能」について書いてみたいと思います。
先日、小学校時代の友だちと会った時に「小暮くんは才能があるんだから良いじゃない」と言われ、うーん、世間で言う才能の意味って、そういうことなんだなあと感じました。
私がどうかは別にして、才能が変にあっても、それで飯が食えるとは限らないし、食えたとしてもギリギリの生活を送らなければならなかったりするわけだしね。
たしかに私はその道で何とか糊口を凌ぐ幸いに恵まれました(”糊口を凌ぐ”と”幸い”は反対語というとこがミソ)。
ただ、サラリーマン時代もあったわけで、どのみち今の方法で生きていくしか道はなかったかなとも思います。
若い頃は自分は天才だと思う時もありましたが(この道で飯を食う人は、ほぼ例外なくそうです)、今は自分が天才かどうかにはあまり興味ありません。
もちろん、人に描けない絵を描ける自負はありますが、 そういう人はそう多くないにせよ、けっこうこの世の中にいます。
大したことでもあるし、大したことではないかもしれない。
才能はある程度あると思いますが、もっと優れた人は世にいくらでもいるというところでしょうか。ともかくも「代わりがいない」人間にはなりたいと思っています。
でも、例えばモーツアルトとかアインシュタインみたいな天才は、本人はかえって辛いものだと思います。
他人からは理解されないし、そういう人は当然凸凹も激しいから、人が簡単にできることもできなくて誤解されることも多い。
それに才能というのは、その人の目立つところに集中しますが、実はトータルな肉体や人格、精神を含めたすべてを指すと思います。
たとえば生まれつき体が大きい、背が高い、逆に小さいというのも才能(これは資質になるか?)であります。
力士であれば、体が大きいのは立派な才能(やはり資質か)になりますし、逆に小兵であるのも、場内を沸かせる才能になり得ます。
いずれにしても人間というのは、持って生まれたもので勝負しないといけない。
美人で得することもあれば、不幸になる人もいます。
コメディアンであれば不美人をネタに成功する人もいる。
だから最近はとみに思うのですが、「才能がある」なんてことは、そんなに取り立てて自慢すべきことでもないし、逆に卑下することでもない(あ、卑下するというのは、才能の反面に持ってるマイナス面のことを指してますが)。
やはり大切なことは「精進」、あるいは「稽古」でないかと思うこの頃です。
よく「結果がすべて」「人は結果しか見ない」という人もいますが、それなら結果を出すためなら何をやっても良いのかという話にもなります。
社会というのは、ある程度のお金がないと生きていけませんから、良い結果を出して、それ相応の生活を送ることは大切ですが、それも精進なしにはあり得ない話です。
神田橋先生は最近「ぼくは最近、治療がますます上手になってねえ」とおっしゃっているそうですが、それはきっと本当でしょう。それは先生のたゆまぬ精進の賜物であるのです。
先生を引き合いに出すのは甚だ不遜ではありますが、私も最近絵がとっても上手になりました。本当ですよ、先日も絵をお渡ししたクライアントは、感激して泣いていました。
しかしながら葛飾北斎が「神奈川沖波裏」を描いたのは72歳。
しかも江戸末期の72歳です。
いやいや、いかんいかん。自慢してるヒマがあったら精進せんといけません。
続きはまた、いずれ。
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