昨日はアカデミー賞の発表があり、何とフランス映画でモノクロ無声作品、
「アーティスト」が作品賞を含む5部門を受賞しました。
見る前から言うのも何ですが、
今の時代、あえてモノクロトーキーにした作品がオスカー受賞・・・
いや、何となくわかりますねえ。
土曜日に「J・エドガー」を見た時、本編の前にいっぱい予告編をやりましたが、
「ホビット」「タイタンの逆襲」「ジョン・カーター」といった、
CGタップリの特撮作品は、正直言ってあまり見る気がしませんでした。
スピルバーグは、
「今のCG技術なら、”アラビアのロレンス”で行った砂漠のロケをスタジオで完全に再現できる。
だが、なぜか観客には砂漠で撮影した温度や空気がわかってしまう」と言いました。
たしかにそうですが、ちょっと違うと思うのは「完全には再現できない」ことかな。
鬼のような労力を費やして制作するCGスタッフには申し訳ないけど、
CGというのは、あくまで脳内アクションなんですね。
だから同じ合成でも、レイダース1作目で大岩が転がってくるアクション、
映画館で見ると、本当におっかないけど、
CGの特撮だと、あの勢いはなかなか表現できません。
個人的にはアクション云々よりも、CGの使用方法が「カーズ」や「トイストーリー」みたいな、
CGアニメーションというのは、完全に脳内世界の再現なので、
おぢさんとすると閉ざされた空間に疲れてしまうというのはあるのですね。
「J・エドガー」などでも、大統領のパレード場面などはCG合成をしているに違いないのですが、
脳内世界の再現ではなく、リアルな世界を再現するためのものなので、
善し悪しは別にして、そのあたりはまったく違います。
ちょっと違う話になってしまうけど、
本居宣長じゃないけど、アートには「もののあはれ」というものがほしいというのが、
わたくしの個人的な気持ちです(自分にそれがあるかどうかは別ですが・・・)。
もののあはれ、というのはすごく抽象的な言い方ですが、
ここでは「何かを深く感じる心」とでも言いましょうか。
(みなさん、勝手にご解釈を!
別にそんなものいらん、という意見もアリだと思います)。
わたしの知る短歌の先生で、村松和夫という万葉集の研究者がおります。
村松先生はお弟子さんに言うのですが、
「孫の歌などお詠みなさんな。
もともと短歌は悲しいこと、辛いことを嘆詠するもの。
可愛い可愛いはわからんではないが、
人の心はそのようなもので動くものではありません」
先生のご意見がすべてに当てはまるかはわかりませんが、
一面の真実・・・というよりは、少なくとも短歌の本質に近い言葉に違いありません。
さらに言うと、芸術というのもそうではないかと。
先に書いた記事のイーストウッド作品も、苦手な人がいる一方で、
多くの人の心をとらえるのは、この「何かを深く感じる心」ではないかと思います。
作り手も幸福だと、良い作品ができない・・・なんて人もおりますが、
それはそんな意味があるのでしょう。
幸せだと良い作品ができない、というのも辛い気はいたしますが。
余談ながら、映画「ジョン・カーター」は、
”ターザン”の原作者エドガー・ライス・バローズが1917年に発表した大ベストセラー
「火星のプリンセス」が原作です。
今ではあまり使われなくなった「スペースオペラ」というジャンルの先駆けで、
実はスターウォーズの第一作目は、
当時、スペースオペラを映画ではじめて成功させた作品として話題になったのですが、
すっかり主客転倒して死語になっちゃいましたねえ。
本来なら見たくなる作品のはずなんですが・・・。
写真は写真は有楽町、国際ビルB1Fキッチン・マ・メゾンのクレーム・ブリュレです。
「アーティスト」が作品賞を含む5部門を受賞しました。
見る前から言うのも何ですが、
今の時代、あえてモノクロトーキーにした作品がオスカー受賞・・・
いや、何となくわかりますねえ。
土曜日に「J・エドガー」を見た時、本編の前にいっぱい予告編をやりましたが、
「ホビット」「タイタンの逆襲」「ジョン・カーター」といった、
CGタップリの特撮作品は、正直言ってあまり見る気がしませんでした。
スピルバーグは、
「今のCG技術なら、”アラビアのロレンス”で行った砂漠のロケをスタジオで完全に再現できる。
だが、なぜか観客には砂漠で撮影した温度や空気がわかってしまう」と言いました。
たしかにそうですが、ちょっと違うと思うのは「完全には再現できない」ことかな。
鬼のような労力を費やして制作するCGスタッフには申し訳ないけど、
CGというのは、あくまで脳内アクションなんですね。
だから同じ合成でも、レイダース1作目で大岩が転がってくるアクション、
映画館で見ると、本当におっかないけど、
CGの特撮だと、あの勢いはなかなか表現できません。
個人的にはアクション云々よりも、CGの使用方法が「カーズ」や「トイストーリー」みたいな、
CGアニメーションというのは、完全に脳内世界の再現なので、
おぢさんとすると閉ざされた空間に疲れてしまうというのはあるのですね。
「J・エドガー」などでも、大統領のパレード場面などはCG合成をしているに違いないのですが、
脳内世界の再現ではなく、リアルな世界を再現するためのものなので、
善し悪しは別にして、そのあたりはまったく違います。
ちょっと違う話になってしまうけど、
本居宣長じゃないけど、アートには「もののあはれ」というものがほしいというのが、
わたくしの個人的な気持ちです(自分にそれがあるかどうかは別ですが・・・)。
もののあはれ、というのはすごく抽象的な言い方ですが、
ここでは「何かを深く感じる心」とでも言いましょうか。
(みなさん、勝手にご解釈を!
別にそんなものいらん、という意見もアリだと思います)。
わたしの知る短歌の先生で、村松和夫という万葉集の研究者がおります。
村松先生はお弟子さんに言うのですが、
「孫の歌などお詠みなさんな。
もともと短歌は悲しいこと、辛いことを嘆詠するもの。
可愛い可愛いはわからんではないが、
人の心はそのようなもので動くものではありません」
先生のご意見がすべてに当てはまるかはわかりませんが、
一面の真実・・・というよりは、少なくとも短歌の本質に近い言葉に違いありません。
さらに言うと、芸術というのもそうではないかと。
先に書いた記事のイーストウッド作品も、苦手な人がいる一方で、
多くの人の心をとらえるのは、この「何かを深く感じる心」ではないかと思います。
作り手も幸福だと、良い作品ができない・・・なんて人もおりますが、
それはそんな意味があるのでしょう。
幸せだと良い作品ができない、というのも辛い気はいたしますが。
余談ながら、映画「ジョン・カーター」は、
”ターザン”の原作者エドガー・ライス・バローズが1917年に発表した大ベストセラー
「火星のプリンセス」が原作です。
今ではあまり使われなくなった「スペースオペラ」というジャンルの先駆けで、
実はスターウォーズの第一作目は、
当時、スペースオペラを映画ではじめて成功させた作品として話題になったのですが、
すっかり主客転倒して死語になっちゃいましたねえ。
本来なら見たくなる作品のはずなんですが・・・。
写真は写真は有楽町、国際ビルB1Fキッチン・マ・メゾンのクレーム・ブリュレです。
>作り手も幸福だと、良い作品ができない・・・なんて人もおりますが、
「良い」とは全般的都合(?)言葉ですかね。
監督他スタッフ、主演者他出演者の経験と想像力(or創造力)により、
幸福なら幸福な作品、哀しいなら哀しい作品が作れるのかなぁ。
それらを統合した事柄が、もののあはれ、でしょうかぃ。
観客にも、それ相応のチカラが要求されますね。
あと、アッシが思うに、
その様に魅(見)せる「演技」と「演出」が、
要求される。
あれっ、重複しちょル? 当たり前過ぎる?
でも、それらってウソ。
でも、アキラ・クロサワは絶対に映り込まない抽斗の中身も、
それ相応のモノホンな品物を入れていた。
例えば、マスオさんには申し訳有りませんが、
柔道の試合とか大相撲ですと、如何ですか?
玄人には何が凄いか理解できても、素人が見ていると、
ただのデブのもつれ合い、(スイマセン)
という場面だと...。
映画と成ればやはり、真空投げ、とか必要でしょうか???
赤字上映にしないためには。
キスシーン、なんかも、実際にあの体勢は有り得ない、なんてね。
そんなこんなが映画の楽しさであります。
メリル、イイ女だなあ。
はいっ、それでは、また来週、サヨナラ、サヨナラ、...
サヨナラ。
>ただのデブのもつれ合い、(スイマセン)
なななな。なんと!
そら、ちゃいまんがな(笑)。
作り手が幸福だと、良い作品ができないというのは、
映画化みたいな総合芸術だと、少し違うかもしれませんね。
絵画や文学、作曲家のようにひとり悶々と作品を作るケースの場合、
あまり満たされてしまうと、つまらないものしかできないことがあります。
イーストウッド監督はどうなんだろう。
淡々としていて、あまり関係ない気もします。
煩悩を作品にするタイプじゃないので、当てはまりませんね。
なんてことを自分に重ねながら考えている、今日この頃です。