▲拙著「おちゃめなイタリア人!」のカバー絵原画です。
昨日アップした佐藤全校先生のブログ記事がけっこうなアクセス数になっていて、きっと意外なところからご覧になってる方が多いのだと思いました。
言い方は良くないのですが、私が入学した当時の美術大学というのは、失業者養成所みたいなわりに、あまり教授が何か教えてくれるわけではありませんでした。
特に絵画彫刻などファインアート系は、自分で勉強しろってことだったのだと思います。大学に入る時点で、デッサンなど一通りのことは習得しておくのは当たり前で、それは予備校で学んだことが多かったと思います。
口を酸っぱくして言われたのが「空間」という概念です。
たとえば、丸いボールを描くときに、球体のどこの部分が自分に近いか遠いかという、立体を描く時の考え方ですね。
「知って描く」ことと、「知らないで描く」のは大違いで、それはおのずと絵に表れるわけですね。
美大の受験では、そういったことを理解して描いているか見られますから、予備校は当然、基本を厳しく教えてくれます。佐藤先生もそういう先生でした。
さて、いざ大学に入ると、よほど絵を提出しないとか、学校に来ない限りは留年はありません。東京理科大学などに比べると、てんで緩いものだったので、1〜2年の間は遊ぶか部活に身を入れるといった感じだったでしょうか。
特に1、2年の時は与えられたデッサンと油彩を描くだけのプログラムで、予備校の時にそれが出来てしまったと勘違いした私は、最低限の絵しか描きませんでした。
たぶん、美術を学びはじめてから、一番絵を描かなかった時期かもしれません。
良くないですね。
をい、若い私!
思い上がるのもいい加減にせいよ…って、後からツケが回ってきたからいいんだけど♪
それでも大学3年になって、宮崎進先生と今井信五先生の具象画クラスに入ってからは、少しは身を入れて絵を描くようになりました。
▲こちらがドストエフスキーの『白痴』の第一部のラストを描いた作品。
大学3年の終わり頃に描き始め、4年の卒業制作にした作品ですが、その後大学院に進んだ時にも、まだ描いてた作品です。
教授から「いいかげんにしろ」と言われました。
そんな学生生活でしたが、家には殆ど帰らず、友達の家を泊まり歩き点々としていた生活をしていたようです。
同級生だった虹色社(なないろしゃ)の代表、山口さんから聞いた話では、酔っ払って八王子の側溝に落ちて泥だらけになったことがあったそうです。
「だから言わんこっちゃない。落ちただろう」と山口さんが言うと、
「落ちたんじゃない。こっちから入ったんだ」と言ったとか。
それがまったく覚えておらず、30数年経ってから初めて聞かされてびっくりした覚えがありました。ほかにも余罪がいっぱいありそうだな。
でも、若い人からは一番嫌がられそうな武勇伝になりますので、ここでは言うマイ、マイマイカブリ・・・なんて、ウフッ♪
あれから40年近く経ちますが、いや〜思っていた人生と違う !
もっと立派になっていたはずなのに〜(笑)。