小暮満寿雄 Art Blog

ダジャレbotと間違われますが、本職は赤坂在住の画家です。作品の他お相撲、食やポリティカルな話も多し。右翼ではありません

小説家、見てきたようなウソを書き。

2014-04-23 08:59:43 | Weblog
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昨日の「花子とアン」、花が葡萄酒で酔っぱらう場面に、作家の北大路公子先生がこんなツイをしました。

一回寝ちゃった酔っぱらいがあのテンションで復活するってないと思うのよ。脚本家は下戸か? 下戸なのか?

さすが先生。あの展開はありえませんね。第一、赤ワインとブドウ畑のにおいは別物じゃないでしょうか。

全くです。なにか違うお薬でもやったかのようなテンションでした。

あれは仲間由紀恵が寝た後も一人で延々飲み続けた後のテンションですよねw ていうか、そんなに葡萄に親しんでいたのに、花は葡萄酒の存在を知らなかったのだろうか。

さすがは作家、シナリオの虚構に敏感ですが、あれはドラマ的には何か騒ぎを起こして展開を作りたいという力技の脚本ということでしょうか。

「おお、あなたは全聾の作曲家の佐村河内さんじゃありませんか」

「そういうあなたは、有名音楽プロデューサーの太巻さん」

これは「説明シナリオ」という通常の会話ではありえない、見ている人に向けての不完全な脚本です。



シナリオを書くのは人間なので、こういうツッコミどころが出来てしまうのは仕方ないことですが、突っ込まれるシナリオよりタチの悪いのが、良く出来たウソで作品が塗固められることでしょう。

実話をもとにした小説やドラマが、事実と若干違う点があるのは当たり前の話です。
まともな知性のある人なら、見ている方も「お話」と知りながら見ているわけですが、世の中にはドラマの悪役が本当に悪い人だと思う方も少なくありません。

韓流ドラマなどでは、変な日本語を喋る日本人が出てきて威張り散らしたり、傍若無人の振る舞いをしているのを見かけると、実に複雑な気持ちになりますが、大なり小なり、こうしたドラマには制作する側の意図がありますし、その善し悪しも見る側が判断するしかありません。

俗に「小説家、見てきたようなウソを書き」と言いますが、実際のところ、私たちの住んでいる世界は自分が見て来たものと、半分虚構(あるいは全部虚構)と半々の認識で成り立っていると言えます。

書物から得た知識や映像から受けた情報、それがすべて現実、事実とは限りません。



反面、「百聞は一見に如かず」などと言いますが、それは奈良の大仏のように、いつ行ってもそこにあるものの場合に限られた話です。

たとえば中国現地に行って、中国人に騙された人と、親切な中国人に歓迎された人では、同じその場所を踏んだ人でも大きな違いがあるわけで、そんなケースに「百聞は一見に如かず」は当てはまりません。

書物や映像の役割というのは、そういう多角的な世の事象を切り取って、誰でもわかるように世界を再現することにほかなりません。

そういう意味で、先日ビジュアルを担当させていただいた宇田川敬介氏の「庄内藩幕末秘話」では、あまり言われてない史実を見事に交えたエピソードが書かれていました(以下ネタバレ注意)。



それは庄内藩において、武士と一緒に百姓が戦ったという場面です。
もちろん小説内の会話は虚構ですが、一緒に戦ったことは史実です。

俗に士農工商と言いますが、宇田川氏によれば江戸時代というのは、私たちが考えているより人々はずっと平等でいた時代でした。

キリスト教がインドのように布教できなかったのも、 「主の前では民、みな平等」というのが、それほど当時の日本人にとって魅力的ではなかったわけですね。

これは白土三平先生の「カムイ伝」などとは真逆な見方ですが、かの名作は極左だった白土先生独特の虚構とも言えましょう(それはそれで価値があります。ちなみ人からウヨクと呼ばれる私は、今でも白土作品のファンでもあります)。

そう言った意味で、小説やドラマというのは、事実に即してるには越したことがありませんが、それ以上に作り手の見方というものが大切になってくるわけですが、宇田川氏のこの見方は、挿絵を描く側としては実に腑に落ちる内容でした。

一方で、実際は白装束がほとんどだった宮中を、カラフルな衣装でまとめている韓流時代劇。これは見方を考えずにいられません。

それについては、また次回!
コメント
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